ぶっちー、
こんにちは。
お元気ですか?
夏バテしていませんか?
長崎は連日雨で、九州の梅雨はこんなにひどいのか……と時々、憂鬱な気分になります。
と思ったら、ここ3日間ほどは快晴で、気温が35度まで上がりました。
車の中が完全にサウナ状態で、頭も身体もおかしくなったのか、狭い山道で対向車に道を譲るためバックしたら、トランクとバンパーを石垣にぶつけました。
修理代金の見積もり、12万円。
トホホのホ、でも人や猫を轢かなくて良かった。
初対面の人と話す時も、ぶっちーに手紙(この記事)を書く時も、つい天気の話から始めてしまうのは何でだろうね。
それが社会におけるお決まりのコードと言ってしまえばそれまでなんだけど、天気の話がコードになっているのは、空は万人に平等だからかしら?
どんな金持ちでも貧乏人でも、男でも女でも大人でも子供でも、晴れは晴れだし雨は雨。
1日24時間という時間は万人に平等に与えられているように、誰もが同じ空の下で生きている。
「私とあなたには色々と違いがあるけれど、少なくとも今この空の下にいるという事実は同じですね」「お天道様が見ているから、お互い悪いことはできませんね」というメタメッセージを送り合っているのかも、なんてね。
By the way......
先日、今年3度目の韓国、ソウルに行ってきました。
今回は6日間の滞在で、仕事の合間に多少観光らしいこともしました。
上記のサブタイトルを思いつい(てしまっ)たがために、この記事を書き始めた次第です。
許せよ!
さて、ソウル。
街並みも人々の出で立ちも、東京とよく似ているけど言葉だけがわからない(韓国語がわからない自分にとっては)という不思議な大都会。
中国語圏なら漢字で何となく意味を掴めるけど、ハングルだとそれもできない。
突然この世界から言葉だけが失われたような、ある種のパラレルワールドに来たような、そんな感覚をときどき覚えます。
もっとも、翻訳アプリを使えば大体の意思疎通はできるし、英語もある程度は通じる。
込み入った話をするときは、微妙なニュアンスまでちゃんと翻訳されてるのかな?って思うけど、仮にされていなかったとしてもそのときはまあ”lost in translation”な感じを楽しめば良いか、と思ったり。
そういえば”lost in translation”というタイトルの、東京を舞台にした映画がありましたね。
映画といえば、2022年に公開された『別れの決心』という韓国映画がありましてん。
この映画の中で、中国人女優のタン・ウェイが韓国語を話してるんだけど、時々、ここぞという場面でスマホを口元に近づけて中国語を発して、韓国語に自動翻訳された音声を相手の男(韓国人)に聞かせるの。
スマホを持った手をぐっと男の方に伸ばして、男の顔を真っすぐと、どこか挑発的に見据えながら。
その凛とした姿と、二人の間に漂う距離感がなんだかセクシーだなあ……と思って、妙に印象に残っているのです。
今回のソウル滞在中、いくつか美術館や博物館を巡りました。
まず向かったのは、弘大(ホンデ)という繁華街の外れに佇む「戦争と女性の人権博物館」。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/war-and-womens-rights-museum-202308
記事にある通り、太平洋戦争中に日本軍の「慰安婦」として人生を奪われた女性たちの悲劇を伝えることにフォーカスした小さな博物館。
日本語の音声ガイドを聴きながら、ひとつひとつの展示をじっくり見たけど、何ともいたたまれない気持ちになって、その場でひとり泣きました。
俺がこの問題の存在を初めて認識したのはおそらく、シカゴの全寮制語学学校で学んでいた14歳の頃に、ある韓国人の男子生徒から「俺のおばあちゃんは日本人にレイプされたんだぞ!」と強い口調で言われたとき。
彼は確か俺の2つか3つ歳上で、身長185センチくらいあって、殴られはしなかったけど胸ぐらを掴まれるくらいのことはされた記憶があって、怖かった。
確か、全然関係ないことで彼は怒ってて(彼の湯沸かし器を俺が間違えて勝手に使っちゃった、みたいな)、その怒りを表現するために脈絡なく出てきた言葉だったんだと思うけど、今も覚えてる。
そんなこと知らねえよ!俺の責任じゃねえし!と当時の俺は思った気がするけど、大人になった今はそうも言ってられないな、と。
確かに俺の責任じゃないし、責任はどうやっても取れないけど、日本という共同体の一員として、あるいは国際社会の一員として、その恩恵を少なからず受けて生きている以上、先人たちが犯した間違いを敢えて「自分ごと」として謝罪する義務と、そして今日まで残された仕事を「引き継ぐ」義務はあるのかな、と。
少なくとも展示を見ていて、多少後ろめたい気持ちになったというか、「俺には関係ねえ」とは思えなかった。
戦時中に日本がアジア各地に設置した「慰安所」で、感染症予防のため軍人たちに配布されていたコンドームの袋が展示されていたんだけど、その袋の表に書かれていた文字に戦慄しました。
「突撃一番」
ヤバいよね。
狂気の沙汰としか思えないこの四字熟語(と言っていいのか?)を見て、戦争の恐ろしさ、集団心理の恐ろしさ、人間に潜む暴力性の恐ろしさを感じました。
そして、狂気は自分を含む現代人の中にも当然潜んでいて、ちょっとしたキッカケで表に出てきてしまうものであるとも思います。
ちなみに、この博物館には韓国人女性の悲劇だけでなく、ベトナム戦争時に韓国軍の兵士たちがベトナム人女性に同様の虐待をしていたことを示す記録も展示されていたのね。
自分たち(韓国人)は被害者であるだけでなく加害者でもある、という明確なメッセージを提示していたことに感動しました。
戦時下の性暴力は極端な例かもしれないけど、人は生きている以上、他者と関わり合いながら生きている以上、どうしても傷つけ合ってしまったり、あるいは一方的に傷つけてしまうことがある。
それは人間同士の話に限らず、他の生き物や、自然との関係においてもそうかもしれない。
人間は都市を開発することで自然を傷つけ、自然は地震や台風を通じて人間を傷つける。
どうしても傷つけてしまう以上、大事なのは「なるべく傷つけないように気をつけること」と同時に「うっかり傷つけてしまった後にケアすること」ではないだろうか。
一方的な善意の押しつけではなく、他者の傷にそっと寄り添うこと、そして自分の傷とも向き合い、丁寧にケアすること。
今も毎週水曜日、ソウルの日本大使館前では日本政府に対して全面的な謝罪と補償を求めるデモが行われていると知って、そんなことを考えました。
そういえば、数年前に『電波の城』(全23巻)という漫画を一気読みしたんだけど。
その漫画で、ヒロインが自死するという衝撃的なラストシーンに添えられていた「りんどうの花言葉」が好きです。
「あなたの悲しみに寄り添う」
今ググったところ、この花言葉は「リンドウが群生せずに単独で咲くことから付けられたと言われています」だそうです。
……って、なんだかおセンチな話になってしまいましたね。
感傷に浸りながら博物館を出た後、ヘソ出しホットパンツでキャピキャピと街を歩く韓国ギャルたちを見ながら、ああ、この子たちも時代が違えば青春と人生を丸ごと奪われていたのかもしれないな……と思ったり。
そして俺自身の青春は、先述の通り14歳の頃にアメリカで同年代の韓国人たちに囲まれながら、恍惚と苦悩が入り乱れたような日々と共に始まったんだったな……
次回に続きます(たぶん)。
2024.07.19
はるん
177. あなたの悲しみに寄り添う(ソウルから魂を込めて)
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