ぶっちー、

こんにちは。
心の変化なるものを記してみんとすぃてくれてありがとう。
拝読しました。

気付かぬうちに自分が自分に貼っていたラベルがポロポロ剥がれていった気がするよ。

いいね、ラベル剥がし。
自分探しの旅、ならぬ、ラベル剥がしの旅。
思い出ぽろぽろラベルぽろぽろ。

ぶっちーが「気付かぬうちに自分が自分に貼っていたラベル」って一体、どんなものだったのだろう?
そのラベルを貼ることによってぶっちーは、どんな不自由を被っていたのかしら?
ラベルが剥がれたことによって、より精神的に自由になれたということだよね?

あと、これは言語面の話なんだけど、
スペイン語って、be動詞が2種類あるの。
ser と estar。
わたしの理解では、serは永続的な状態に対して使われて、estarは一時的な状態に対して使われるの。
だから、出身地とか名前は基本的にserだけど、
今どこいるの?とかはestarで応える。

スペイン語全然わからないんだけど、面白いなあ。
人間の思考は言語によって形作られるんだ、って改めて思いました。

例えば「結婚している」は、”ser”と”estar”のどちらなのかしら?
離婚が全然珍しくないこのご時世とはいえ、カトリックの結婚は「永遠の愛を誓う」ものだし、流石に永続の”ser”かな…と思って今調べたら、

 「結婚している」、「独身である」などの戸籍上の身分を表すときの言い方です。これも動詞 estar を使って表します。

Yo estoy casado.
(ヨ・エストイ・カサード)
「私は結婚しています(既婚者です)」・・・男性の場合

Yo estoy casada.
(ヨ・エストイ・カサーダ)
「私は結婚しています(既婚者です)」・・・女性の場合

casado、casada は「結婚した」という意味の形容詞で、語尾が男性の場合と女性の場合に変わります。

https://bringinfo.net/archives/2546


結婚は「一時的な状態」だった!

いや、スペイン語の基本的な文法に対する理解が全くないので、トンチンカンなことを言ってるかもしれないんだけど。
結婚はあくまでも意志に基づく行為であって、名前や出生地みたいに自分の意志とは関係なく勝手に付与されるものではない、ということかしらね。

さて、ここから本題。

俺が前回の記事で書いた「ぶっちーにとっての幸せとは何ですか?」という質問に対するぶっちーの答えだけど、

私にとっての幸せは、好きなときに好きなことをすること。

好きなときに好きなことをすること…って、うちの3歳児(イヤイヤ期)と同じやんけ!
まあでも、好きなときに好きなことをするのは、確かに幸せだよね。
今、このブログを書いてる俺、幸せ。

ぶっちーが「前にも書いた気がした」という記事は、これじゃない?
記事のタイトルはズバリ「わたしにとって一番たいせつなこと」。

そして二日目。
「ぶっちは何が一番大切なの?」と聞かれたの。
「なんにもしなくてもいい、が一番たいせつ」て答えたら、
「それでも、ご飯食べて、寝て、トイレ行って、いろいろするでしょ?」て。
ごもっとも。
なんなら、お風呂も入るし、洗濯するし、着替えるし、掃除機かけて、気分が良ければキッチンの大掃除したりする。お酒も飲むしね。
いろいろやってるの。
で、答えを見つけたよ。
「今日はなにをしようかなぁ」
わたしには、これが一番たいせつなんだなってわかった。

「わたしはやりたいことは何もないんです」て言うと幸せの感度が低いんだと思われるようなのだけど、
わたし多分幸せ感動高すぎるんだと思う。
体弱かったから、
みんなと同じご飯食べられるの幸せ、とか、
自分で料理したら、何が入ってるか大体把握できて安心で幸せとか、
掻き傷でパジャマ張り付いてないから朝着替えるの楽チン♡とか。
逆に、すごく楽しみにしてる用事があっても、
その日にアトピー爆発してたら外出できないし、
外出できてもちっとも楽しめなかったり。
デフォルトが、思い通りにならないことだらけだから、
コントロールできる範囲が少しでもあれば嬉しいの。
自分で作った料理が美味しいのと、着飾って出かけたヌーベルシノワで食べたことない美味しいもの出てきても、どっちも嬉しいの。

めっちゃいいこと書いてるじゃん、2017年9月のぶっちー。
で、それに対する俺の返事も、結構いいこと書いてるのよ。

うん、ぶっちーは幸せ感度高いと思うよ。
「ちょっとしたことで幸せになれる」って、大いなる才能だと思うんだよね。

たとえば六本木ヒルズに住んでフェラーリに乗って有名女優と付き合わないと幸せを感じられない人よりは、ぶっちーの方が遥かに「幸せになる能力」は高いじゃない。
「〇〇じゃないと幸せになれない」という条件が多いと、人生しんどいよな。
その条件は大体、テレビとか広告代理店の洗脳だと思うけど。

幸せ感度の話については、内田樹も『疲れすぎて眠れぬ夜のために』という本の冒頭に、ぶっちーと似たようなことを書いていて。
せっかくなので、ちょっと引用しておくね。

 欲望の充足ラインを低めに設定しておけば、すぐに「ああ、なんという幸せ」という気分になれるでしょう。「小さくはあるが確固とした幸せ」(@村上春樹)を一つ一つ積み重ねてゆくこと、それが結局「幸せ」になるための最良の道だと思います。
 氷雨の降っている冬の朝なんかに、暖かいふとんにくるまって朝寝をしていて「あ、今日は学校ないから、ずっと寝ていていいんだ」と思うと、もうそれだけで王侯貴族のような幸せを感じることができます。安上がりですよね。
 簡単に「幸せ」になれる人間というのは、なんだか薄っぺらで、バカにされそうですけれど、ぼくは「すぐに幸せになれる」というのは一種の能力だと思います。生存戦略上、この能力は明らかに有利です。

俺は最近、ようやく「すぐに幸せになれる」能力がちょっとだけ高まってきたような気がしていて。

たとえば毎朝、娘たちの世話をする合間に手動のコーヒーミルで豆を挽いて(娘1号が「あたちもガリガリやるー!」と手伝ってくれる)、お気に入りの保温マグカップにやや濃い目のコーヒーを淹れて、まだ湯気が出ているうちに最初のひと口を飲む瞬間なんてかなり幸せ。
スピーカーで好きな音楽を聴きながらキッチンで料理する時間とか、友達に会ってカフェでお喋りする時間とか、公園で自分の娘を含む近所の子供たちと遊ぶ時間も幸せ(たまに消耗するけど)。
もちろんこのブログを書く時間も、ぶっちーから届いたお返事をワクワクしながら読む時間も幸せ。
どう、安上がりでしょ?

今書いたことはいずれも、確かに「好きなときに好きなことをすること」ではあるね。
ああ、俺も結局のところ3歳児(イヤイヤ期)と一緒か。

でも、「好きなときに好きなことをすること」が自分にとって一番大切か?と言われると、もっと大切なことがある気がする。
ちょっと考えてみよう。

「〇〇とは何か」を考えるときには「〇〇でないものは何か?」を考えると輪郭がクリアになると思うので、ここで「自分にとって”不幸せ”とは何か」を考えてみたい。
「病気」とか「貧乏」とか「激務」とか「戦争」とか色々要因は思いつくけど、これは本当に不幸せだなあ…と思うのは、

「愛情に基づく人間関係を築けないこと」

たとえ病気でも貧乏でも激務でも戦時中でも、誰かと愛情ある人間関係を取り結ぶことができていたら、何とか生きていける気がする。
家族でも恋人でも友達でも、よく行くコンビニの店員でも誰でもいい。
「好きなときに好きなことをする」が全然できない人生も辛いと思うけど、「誰とも愛情に基づく人間関係を築けない」人生はもっと辛い。
たとえ仕事や介護や育児や生活に追われていても、あるいは刑務所に入っていても、誰かと愛情を育むことができていれば救われるように思う。

愛情に基づく人間関係って何ぞや?を一言で定義するのは難しいけど、言うなれば「この人には幸せになって欲しい!それが私の幸せ!」と思えて、それを行動に移せるような人間関係、だろうか?
例えば見知らぬホームレスの人におにぎりを渡すとか、愛情以外の何ものでもないと思う。
幸せになって欲しい!という思いだけでなく、その思いを何らかの具体的な行動に変換する勇気がいるよね。
そして、誰かを幸せにすることによって自分も幸せになりたい、と思うのは偽善でもエゴでもなく、自分自身に対する立派な愛情だと思うのです。

逆に、愛情なき人間関係とは何ぞや?と言われたら、それは「損得勘定ベースの人間関係」とでも定義しておこうか。
「この人と一緒にいるとメリットがあるぞ」とか「こいつは都合がいいぞ」とか「こいつは俺の寂しさを紛らわしてくれるぞ」とか。
お金とか社会的地位とか身長とか国籍とか性別といったスペックありきの人間関係は、典型的な「損得勘定ベースの人間関係」だと思う。

ぶっちーに教えてもらったエーリッヒ・フロムの『愛するということ』に書いてあった通り、愛とは訓練を必要とする具体的な技術であって、本人が「訓練しよう」という意識を持っていれば、自然と育まれていくものだと思う。
重要なのは「人を愛することができる人間になりたい」という内発的なモチベーションを持てるかどうかで、例えば幼少期に親から愛されなかったと感じている人は「愛されたい」という欲求が先行してしまい、なかなか「人を愛することができる人間になりたい」という欲望を持ちにくいんだと思う。
こういうのは生い立ちや運に大きく左右されてしまうものだと思うけど、でも「そうか、自分は愛されたいとばかり思っていて、その理由はきっと〇〇なんだ」と意識化することで、人は変わっていくと思う。
どんなに理想的と思われる家庭環境に育った人でも、あるいは虐待を受けていたような人でも、ひとりひとりに独自の「心の穴」(©️二村ヒトシ)があるわけで、その穴の形を自覚しようと努めることが大事なんだと思う。





改めて考えると、例えば自分で豆を挽いて淹れたコーヒーを一人で飲んだり、好きな音楽を聴きながら料理をするときに俺が覚える喜びは「快楽」であって、それは愛情から生まれる「幸せ」とは別物なんじゃないか?
神経伝達物質で言うと、「快楽」で放出されるのはドーパミンやアドレナリンなどのアッパー系で、「幸せ」で放出されるのはセロトニンやオキシトシンなどのチル系ではないか?
そして「幸せ」は一人の世界で完結するものではなく、他者との関わり合いの中で生まれるものなのではないか?
誰かと抱き締め合ったり、肌を触れ合わせたり、心を通わせ合ったときに感じるものこそ「幸せ」ではないか?

いや、別に相手が人間じゃなくても、たとえばコーヒー豆や音楽や花や家具やペットなどにも愛情を注ぐことはできるとは思う。
コーヒーを心から愛して美味しいコーヒーを追求している人や、飼い猫とのじゃれ合いが至福の時間という人も、やはり幸せだろう。
でも、今の俺にとっては人間こそが愛情関係の主たる対象であり、他人との関わり合いの中で幸せや不幸せが生まれてくるのだと思う。
まだまだ悟りは開けませんね。

ところで、先ほど引用した記事で6年前の俺が他にもいいこと言ってたので、また引用します。

ぶっちーを「個性的な人」だと思ってる人、結構多いんじゃないかと思うんだけど、
俺はぶっちー、普通の人だと思うんだよね。
普通の人っていう表現も変だけど、ぶっちーが「他の人々より特別に個性が強い人」とは別に思わない。
そもそも「個性的な人間」と「個性的じゃない人間」がいる、という風に考えてないんだけど。
ひとりひとり顔違うし、体つきも違うし、誰しも生まれながらに個性はある。
俺はぶっちーの個性(たとえばエビが食べれない、とか)を面白がってはいると思うけど、
そのベースとして、ぶっちーが大部分で普通の人というか、多くの人と共通する感覚を有していることが重要なのであって、
もしそれがなかったら、ただの宇宙人としか思えないと思う。笑

ぶっちーという人間、あるいは俺という人間が他の人間に比べて特別に個性的、なんてことは全くなくて、
たまたま生まれた関係性の中で、俺はぶっちーとのコミュニケーションを面白がれるようになって、
ちょっとした思いつきで今こうして交換ブログしてる、っていうだけの話だと思うんだよな。
だからこの交換ブログは極論、誰でもできると思ってるし、
誰でもできる雛形になってこそ面白い、とも思う。
今こうして書いてても、コンテンツの内容は実は大して重要ではなくて、
ある関係性の中で継続的なコミュニケーションが発生してる、というのが重要なのではないかという気がする。
だから書くネタがどれだけあっても、コミュニケーションに消極的なときはお互いなかなか書けないし、
別に面白いネタがなくても、コミュニケーションする意思さえあればいくらでも書けるんだろうな。
コミュ障がそんなコミュニケーション語っていいのかよ、って話はさて置き、
今書きながら、そんなことを考えたのでした。

今は自分のことを「コミュ障」だとは別に思っていない、という点以外は6年前と考えが全く変わっていません。
人間関係とは、コミュニケーション履歴の蓄積、関係性の歴史によって作られるものだと思う。

俺はぶっちーのスペックや履歴書に興味はなくて、またぶっちーの人柄が他の人と比べて特別に素晴らしいとも別に思ってなくて(多少は思ってるけど)、何より「たまたま出会い、たまたま仲良くなり、たまたま交換ブログなんて初めて、気付けば20年来の付き合い」という事実が決定的に特別なんだと思ってるんだよね。
え、そんなこと?もっと人間性とか性格とか相性とか価値観の一致とかないの?って思うかもしれないけど、そんな不確かで変わりやすいものに基づく人間関係よりも「コミュニケーション履歴の蓄積」に基づく人間関係の方がよっぽど強い気がする。
単に付き合いが長ければ良いという話では全然ないし、そもそも「この人とコミュニケーション履歴を蓄積しよう」と思うには人間性や相性も大事だけど、それは出会うタイミングや出会い方に大きく左右されるもので、一概に「こういう人がいい」なんて条件設定はできない。
俺とぶっちーの関係だって「大学入学前にハヤトを介して知り合う」という出会い方をしていなければそんなに仲良くならなかったかもしれないし、仲良くなった今もお互いに「なんか話が合わねえな」みたいな時期は全然あると思うけど、だからといって「じゃ、さよなら」とはならないし、「ま、そのうち気が向いたらお茶でも誘うか」くらいの程よい距離感で成り立っていると思うのね。
そして距離感があることは、イコール「関係性が浅い」というわけでは決してなくて、むしろ信頼心がなければ取れないコミュニケーションではないかと思う。

ふう。

自分が昔書いた文章をふとした時に読み返すのって、小っ恥ずかしく&恐ろしくも面白いね。
自分を見失った時に、自分を思い出すキッカケになってくれる気がする。
そうだ、俺ってこういう人間だったんだ、って。
少なくとも、俺ってこういうことを書く人間だったんだ、って。

さて、今日はなにをしようかなぁ(ああ、幸せ)。

2023.10.20
はるお