ぶっちー、
改めましてこんにちは、はるおです。
連投失礼します。
前の記事では思いつきの一発芸に走ってしまったので、こちらの記事で改めて、ぶっちーのお便りへのマジレスを書こうと思います。
マジと書いて本気と読む、ってあれ、逆だった。
改めて、スペインから軽やかなお便りありがとう。
- ますぶちさん、午前中という概念を取り戻す
- ますぶちさん、朝ごはんでテンションが上がる
- ますぶちさん、人生でいちばんの日焼けをする
これ、すごくスペイン的な、素晴らしい変化だと思ったよ。
南国の、真夏の太陽があってこそじゃない?
カミュの「太陽のせいだ」ならぬ「太陽のおかげ」でしょ。
太陽の動き≒自然のリズムに合わせて生活して、心身共に健康な状態でいないと人は、仮に「ストレート150km/hみたいな質問」を受けても受け止め切れない、そんな気がします。
だから、ぶっちーが「午前中という概念を取り戻」したのは極めて重要なことだったんじゃないかしら?
もっとも日本では、早寝早起きの健康的な生活をしていても、なかなか「ストレート150km/hみたいな質問」をバンバン受けるような機会ってないよね。
お互いの「心の現在地と目的地」を確かめ合うようなコミュニケーションが少ない。
たとえば夫婦や親しい友人同士でもそういう話をあまりしない、というか親しい仲であればあるほどしない感さえある。
日本的コミュニケーションの軸となるのは速球ではなくスライダーで、たまにカーブやフォークが混ざってるくらい。
たまに投げるストレートも、ここぞという場面の勝負球というよりは、見せ球として外角高めに大きく外すような「なんちゃって」感の強い速球が多い。
野球好きのぶっちーならこの例え、何となくわかってくれるでしょうか?
もちろん、150km/hのストレートばかり投げ合うのも疲れちゃうし、それが絶対的に正しいコミュニケーションだなんて思わないけど、自分の気持ちや感情と向き合う機会を持ちにくいことが、多くの日本人を不幸にしてしまっているような気がします。
いや、自分が「不幸である」と思っている人はまだ良くて、多くの人は自分が幸せなのかそうでないのかさえよくわからない、思考停止ならぬ感情停止に陥ってしまっているような。
劇作家の鴻上尚史が『週刊SPA!』のコラムにこんなことを書いてました。
日本人は、どうも、正面切って「これが私の幸せです」と断言することに慣れてないような気がします。これが、ヨーロッパだと、「家族と暮らすことが私の幸せです」とか「恋人と美味しいものを食べることです」とか、簡単に断言するのです。
日本人に「あなたの幸せはなんですか?」と質問すると、「うーん」と考え込んで、内心、「まともなことを言わないと恥ずかしいぞ」とためらって、こんがらがるだけのような気がします。けれど、ヨーロッパ系はしごく簡単に断言するのです。「美しい庭を作ること」だの「旅行をすること」だのね。
鴻上さんは別に、「これが私の幸せです」と断言するヨーロッパ人は素晴らしくて、断言しない日本人はダメだ、なんてことは言ってない。
でも、日本人に向けて書いている以上、日本的なコミュニケーションを批判的に考察していることは確か。
「あなたの幸せはなんですか?」と聞かれて答えられない人が果たして幸せになれるんでしょうか?と彼は言っているのだと思う。
どうなんだろうね?
ぶっちーにとって「幸せ」とは何ですか?
「これが私の幸せです」と断言できますか?
確かにぶっちーは「言ってることややりたいことがコロコロ変わる」んだけど、実はそんなに変わっていないような気もしている。
俺は自分がそうだと思っているんだけど、コンサバな性格故に、表層的な変化や真新しいものに惹かれるのでは?
スペインでぶっちーが「何をした」「どこに行った」という話よりも、ぶっちーの心にどういう変化があったか、ぶっちーが旅を通じて何を体験したか、という話に個人的な興味があります。
ぜひ、書いてみてよ?
まあ、ゆっくり休んでからね!
2023.10.05
はるお
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