ぶっちー、

こんにちは。
2022年の前半戦が終わろうとしていますが、いかがお過ごしですか?
僕はまあまあ元気です。

前回の記事を書いてから、少し時間が空いてしまいました。
「毎週金曜日に(週1ペースで)書く」というルーティーンを崩したら、途端に書かなくなってしまって(まあ、想定内です)。
一度シャットダウンすると、再起動するまでに時間が結構かかるね。
再起動中にOSがアップデートされていたら良いけど、どうだろう。
書きながら、様子を見てみましょう。

さて、久しぶりにブログを書こうと思ったのは、最近読んだある本に書いてあった話を、ぶっちーにシェアしたいなと思ったからです。
『この世からきれいに消えたい。 美しき少年の理由なき自殺』という、何だかすごいタイトルの本です。



この本は、1997年にとある日本の地方都市で、S君という22歳の若者が人生に絶望して自殺した「事件」について、社会学者の宮台真司とノンフィクションライターの藤井誠二という人が考察したものです。
「事件」とカッコ付きで書いたのは、S君の自殺はマスメディアのニュースとして取り上げられたわけでもない、一人の名もなき若者の自死に過ぎず、彼の家族や友人など限られた人たちにとっての「事件」に過ぎなかったから。
そんな「事件」がなぜ一冊の本になったかというと、自殺したS君が、この本の著者である宮台真司の熱心な読者だったから。

もしかしたらご存知かもしれないけど、宮台真司という人は当時(1990年代)、新進気鋭の社会学者として一斉を風靡していた人なのね。
女子高生の「援助交際」やオウム真理教など、世紀末の日本を騒がせていた社会問題を鋭く分析し、独自の見解や思想をメディアで発表していた。
理論家として超一流であるだけでなく、渋谷の女子高生ネットワークに潜り込んで生の情報を得たり、テレクラ(死語)に入り浸って人妻専門のナンパ師として活動したり、沖縄の風俗街で働く人たちを取材したり、主に性愛を取り巻くアンダーグラウンドな世界でフィールドワークをしていた。
彼は「学者」であることにとどまらず、バブル崩壊後の日本に「新しい生き方」を提示するアジテーター的な存在となり、若者を中心に熱心なフォロワーが数多く生まれた。
自殺したS君もそんな一人で、宮台真司の言葉に多大な影響を受けていた彼の日記や遺書には「宮台語」を駆使して社会や自己を考察した観念的な文章がたくさん書かれていた。

その事実に少なからずショックを受け、また責任を感じた宮台真司が「なぜS君は死んでしまったのか?」を考えた、というのがこの本です。


22歳の若さで自殺したS君は、地元では神童クラスのエリートで、かつ本のタイトルに「美少年」とあるように容姿端麗、さらには経済的に豊かな家庭や幼少期からの親友にも恵まれ、端から見ると何不自由なさそうな男の子だったらしい。

そんな彼は中学生の頃から「人生になんの意味があるんだろう」と思い悩むようになり、日常生活における他人とのおざなりなコミュニケーションが馬鹿らしくなり、次第に周囲から浮くようになった。
社交的な能力自体は十分に持っていて、ありきたりな会話をそつなくこなしたり、女の子と話したりすることもできたけど、表面的な会話の無意味さ、バカバカしさにうんざりしていた。
「東京に行けば何か変わるかも」という淡い期待を抱いて、大学進学と同時に上京したものの大して何も変わらず、絶望しかけていた頃に宮台真司の存在を知り、彼の著作やメディアでの発言を掻き集め、読み漁るようになった。
読み漁るだけでなく、宮台真司がそうしていたように、テレクラに通って女性をナンパをしてみたり、フィールドワーク的に風俗へ行ってみたり、宮台真司の行動をなぞるようになった(主に性的な活動において)。
でも、そうした行為を純粋に楽しむこともできず、例えば出会った女性たちを脳内で類型化したり、彼女たちとのコミュニケーション(セックスも含む)について後から考察したり、常に「分析者」のスタンスを崩さなかった(崩せなかった)。
軽いノリで、良い意味での「バカ」になって人生を楽しむことができず、一方で宮台真司に傾倒すればするほど、宮台真司には決してなれない自分の凡庸さも自覚するようになった。

そんなこんなでS君は、次第に自殺願望が高まり、何度かの自殺未遂の後、ついに死んでしまった。

本のタイトルに「理由なき自殺」とあるように、結局のところ自死の理由が何だったのか、そもそも理由なんてものがあったのか、誰にもわからない。
S君はずっと「人生は無意味だ」と言っていたけれど、同じように思っている人は世の中に結構いるはずで、でも全員が死ぬわけではなく、中には「人生は無意味だ」と思いながらも楽しそうに生きている人も結構いる。

「人生は無意味だ」と思って死んでしまう人と、それでも死なずに生きていける人の違いは何なのか?と考えた宮台真司は、

人生を「無意味だけど、そこそこ楽しい」と思うのか、それとも「そこそこ楽しいけど、無意味だ」と思うのか。

の違いではないか?という仮説を提示するのね。

言葉遊びのようだけど、両者が与える印象は決定的に違う。
前者の「人生は無意味だけど、そこそこ楽しい」は、たとえ一瞬虚しくても、最終的に「そこそこ楽しいから、まあいいや」と生きていける。
一方で後者の「人生はそこそこ楽しいけど、無意味だ」は、たとえ一瞬楽しくても、最終的に「でも、どうせ無意味だ」というニヒリズムに回収されてしまい、生きる動機を失ってしまう。
S君は、こちらのタイプだった。

では、この2つの似て非なるatitudeをそれぞれ生み出すもの、両者の分岐点となるものは何か?

フランス現代哲学のニーチェに由来する「意味と強度」という対概念がヒントになる、と宮台真司は言います。
人生には「意味」と「強度」という2つのベクトルがあり、そのバランスが人間の生命力、生きるモチベーションに影響するのだ、と。


人間は遥か昔から、生きる「意味」を考え続けてきた。

…というのは嘘で、人間が生に「意味」を求めるようになったのは、長い人類の歴史から見ればつい最近、具体的には「二千年前にキリスト教が出現した頃」だとニーチェは言います。
以下、宮台真司による説明。

ニーチェは、「意味が見つからないから良き生を送れないのではなく、逆に、良き生を送れていないから意味にすがろうとするのだ」と言いました。そういう生き方は、二千年前に出現したキリスト教が「生きることの意味を考えはじめた」ところから始まると考え、そういう生き方しかできない人間たちのことを「弱者」と呼んで、軽蔑しました。
物の豊かさに溢れる近代社会は、人々が「意味」を求めて生きることによってできあがりました。別の言い方をすれば、近代社会は、人々に「意味」を追求させることで、社会が必要とする振る舞いを調達してきました。勤勉さには意味がある。成功することには意味がある。国や会社のために生きることには意味がある……。若い人たちが「いい学校・いい会社・いい人生」という物語に動機づけられるのも、そういうことなのです。

ニーチェの思想には賛否両論あると思うけど、「意味が見つからないから良き生を送れないのではなく、逆に、良き生を送れていないから意味にすがろうとするのだ」という主張は、個人的には腑に落ちたのね。
日常生活でも仕事でも何でも、退屈でつまらないけど何かをやらなきゃいけないときって「でも、これには意味があるんだ(だから頑張らねば)」という風に自分を言い聞かせるか、あるいは心を無にしてマシーンになりがちだと思う。
逆に、楽しいときは意味なんて考えず、ただただ楽しい。
まあ、人生は決して楽しいことばかりではないから、時に意味にすがれることも重要で、だからこそ宗教が生まれたのかなとも思うけど。

株式会社が「我が社の事業には、このような社会的意義があります」と企業理念を掲げるのも「意味」を訴えているわけだし、就職面接で志望動機を訊かれるのもやはり「意味」を重視しているからだよね。
社会が未成熟だった頃、日本でいうと高度経済成長期の時代などは「意味」が人々のモチベーション、人々を動かすエンジンになったけど、経済成長が終わって「いい学校・いい会社・いい人生」という物語にリアリティがなくなった今、逆に「意味」を追求する人生は脆く危ないぜ、と宮台真司は1990年代の時点で言ってるわけです。

では「意味」の代わりに何を追求すれば良いのかというと、これが「強度」である、と。

「強度」は英語だとIntensity、日本語だと「密度」や「濃度」と言い換えても良いような概念で、端的に言うと「今この瞬間を濃密に楽しめているかどうか」ということ。
「将来のために辛いことも我慢して頑張る」のが意味だとしたら、「後先のことは考えず今ココを楽しむ」のが強度。
たとえ意味がなくても強度があれば「人生は無意味だけど、そこそこ楽しい」と思えるので人は生きていける、と宮台真司は言います。

確かに僕たち自身を振り返って見ても、僕たちの歓びの大半は、意味とは関係ありません。料理がおいしいのは意味があるからではありません。レシピ(うんちく)に意味があるからこのラーメンはおいしい、という人がいたら可笑しいでしょう。踊って気持ちがいいのも、意味があるからではありません。ゲームで興奮するのも、スリルやスピードが気持ちいいのも、意味とは関係ありません。ただひたすらに、楽しく、気持ちよく、充実しているわけです。
もっと簡単に言えば、意味とは<物語>、強度とは<体感>に相当しています。なぜなら<物語>は過去から未来に繋がる時間の展開が重要ですが、<体感>は「今ここ」が重要だからです。
例えば、子供は誰でも一人遊びを楽しむことができる。それは意味とは無関係で、やはり強度に開かれている。あるいは、近代人になる前は、ニーチェが言うまでもなく、誰も意味なんか探していないから強度に対して開かれていた。
強度とは、言い換えるとテンションであり、濃密さです。簡単に言うと、「濃密な体験」によって、自意識の障壁を超えて、それに身を任せることができるかどうかだと思います。昔の言葉で言えば、心を開けるかどうかということに近いと思います。それは、分かり合うために気を許すといった「意味」の水準とは少し違う。つまり、相手が人間でなくてもいいわけです。「景色がきれいだ」とか「リズムに迫力があって気持ちいい」、あるいは「セックスが気持ちいい」といった体感可能な出来事があったときに、それとシンクロする力です。
壁や障害にぶつかって悪戦苦闘することも、強度のみなもとになります。例えば、自殺したS君の最大の「不幸」は、彼が容姿や才能に恵まれ、家庭や金銭に恵まれ、家族や友人の愛情に恵まれ、何一つ不自由がなかったことかもしれません。いい成績を取るのも、S君にとっては大したことではありませんでした。これはほんとうに「いいこと」なのでしょうか。例えば、頑固な父親が、自分のやることなすことに立ちふさがっているような場合、父親と衝突し、父親という壁を破壊することに全エネルギーを集中することになります。そうすれば、そこには強度や体感が訪れ、世界は平板では無くなります。人間にとって、何不自由なくやりたいことができるという状態は、「強度を求めて得られない」ことの最大の理由になる可能性が大いにあります。

何となく「強度」のイメージが掴めたかしらん?

「強度がある」というのは必ずしも「楽しい」「気持ち良い」というポジティブな状態である必要はなく、例えば「父親と衝突し、父親という壁を破壊することに全エネルギーを集中する」みたいな闘争状況でも強度を感じられる。
そして、人生の強度を高めるためには、具体的に何をすれば良い、というものはなく、その人が「自分の体に生じることにシンクロできるかどうか?」が重要である、と宮台真司は言います。

例えば、同じお祭りに参加しているのに、強度を感じる奴も、感じない奴もいるわけです。御柱祭りにのれる奴も、のれない奴もいるわけです。だから、別にあるチャンスにめぐりあっている、いないという客観的な問題ではないと思います。
例えば、これは僕がかつて出会った女の子で、不感症ではなく、セックスでものすごく感じるけれど、そうした感受性をうまく自分に繰り込めない人がいました。つまり、セックスで感じている自分は、自分とは関係のない他者であるように感じられてしまうので、今を生きる豊かさに結びつかない。セックスではすごく感じても、それが自分だとはなかなか思えない。

要するに「自分自身にノレる」あるいは「主観的になれる」ということが重要なのだ、と理解しました。
人の目を気にしたり、自意識やプライドに囚われず、自分の身体と心を解放することによって人は「強度」を得る。

でも、これができない人が増えている、と20年以上前に宮台真司は言ってるわけです。


他人の思想に影響を受けやすい俺は、この本を読んでから「いかにして人生の強度を高めるか?」と考えています。

たとえば最近、なるべく色んな人と会って話したり、ヨガとピラティスとパーソナルトレーニングを始めたり、娘の保育園の送り迎えを積極的にやったりしているのね。
いずれも何となくやりたいと思ってやっていることなんだけど、人と対面でコミュニケーションしたり、意識的に身体を動かしたり、小さな子供たちと触れ合うことが、強度の源になる「体感」を高めると思ってるからかもしれない。
まあ、こんなことを考えている時点で「意味」に囚われてしまっているわけで、理想は「それをやる意味や目的なんて考えずに、気付いたら衝動的にやってしまっている」という状態なのだと思うけど。

そう考えると、例えば今こうしてブログを書いている時間なんかは、俺にとって極めて強度が高いものかもしれない。
「自分の思考を整理する」とか「ぶっちーに伝える」という目的はあるものの、まず「書きたい!」という衝動があって、集中して書いている時は時間を忘れて没入することができる。
キーボードを叩いていて、いわゆる「ライターズハイ」みたいな状態になることが稀にあって、そういうときは書くという行為自体がただただ楽しく、気持ち良い。
「人からどう見えるか?」を気にするような自意識もなくなって、それ故に後から読み返すと「深夜に書いたラブレター」みたいになっていることに気付いて即ボツ!ということも多いんだけど、それくらい行為自体に没入できる。
今ひとつ心が晴れないときや、人生が何だか平面的に感じられる時に筆を取る(キーボードを叩く)ことが多い気がするのは、無意識のうちに強度を取り戻そうとしているのかもしれないな。

ふう。

俺にとって「書くこと」は人生の強度を高める一つの手段になっていると思うけど、常に上手くいくわけじゃなくて、今ひとつ筆が走らない、気分が乗らない時の方が多いし、どれだけノレるかは自分の心身状態に左右されると思う。
人と会って話すことにしても、強度を感じられるときと感じられないときがあって、それは相手との相性とか環境の問題もあると思うけど、やはり自分の心身状態に左右される。
自分の調子が良いとき、即ち「自分の体に生じることにシンクロ」できているときは、割と誰と会っても(あるいは何をしても)楽しい時間を過ごせる。
逆に「自分の体に生じることにシンクロ」できていないときは、好きな人と会ってもその場にうまく没入できず、会話のキャッチボールにうまくノレなかったりする。

「自分の体に生じることにシンクロ」するにはどうしたら良いんだろう?
逆に言うと、何が「自分の体に生じることにシンクロ」を妨げるんだろう?

たとえば、身体が悲鳴を上げているのに無理して長時間労働するとか、本当はあまり乗り気じゃないのにセックスするとか、そういうのは確実にシンクロを遠ざけると思う。
身体が嫌がっていることはしない、頭で身体をコントロールしない、というのが「身体の声を聴く」第一歩だと思うけど、俺も含めて現代の都会人はこれが苦手だよね。
もちろん、現代社会で生きていくためには、頭で身体にブレーキをかけるべき場面も多々あるんだけど(ムカついても人を殴らない、とか、電車でムラムラしても痴漢しない、とか)。
ブレーキをかけるのはまだ良いとしても、アクセルを無理に踏んで自分の身体を酷使するようなことは極力避けたいね。

ちなみに宮台真司は、一般的に男性よりも女性の方が「強度」を享受するのが得意、言い換えると「今この瞬間を楽しむ」のが得意、と指摘しているのね。
彼曰く、男が社会において「意味」を追求してきた一方で、女は歴史的に「意味」から疎外されてきた(社会的差別を受けていた)から、必然的に生存政略として「強度」を高める術を発達させた。
確かに「今この瞬間を楽しむ」を爆発させているように見える女子会や、「今ココ」の体感に意識を集中させるヨガやマインドフルネスに取り組む人の大半が未だに女性である事実を見ていると、俺もそう思う。
コロナ禍で女性の自殺者が激増したのは、ソーシャルディスタンスによって「強度」の確保が難しくなってしまったからなのかも、とか思ったり。
男はまだ「意味」にすがりやすい環境にあるから、コロナ禍で「強度」がなくても何とか生きていられるけど(その代わりリストラされたりして「意味」を見失ったら、割とすぐに死んでしまう)。


久しぶりのブログ、いつも以上に長くなってしまいました。

思えば大学生の頃なんかは、ぶっちーをはじめ悪友たちと「無意味だけど楽しい」時間を随分と満喫していた気がするけど、社会に出てからは否応なしに「意味」の世界に絡め取られて、人生の「強度」を失いかけていた気がするな。
「強度」と言うとアクティブな活動や激しい運動、バリバリ働くことなんかを連想するかもしれないけど、宮台真司は「強度を持って生きる」ということは即ち「まったり生きる」ことであると表現していて、意味から強度への移行を「まったり革命」と命名しているのね。
別に過激な政治運動やエクストリーム・スポーツに身を投じる必要はなくて、たとえば「カフェでイイ感じのスムースジャズを聴きながら村上春樹の短編集を読んでいる今、とても気分が良い」みたいなのも極めて強度が高い状態である、と。
もちろん、休日の昼下がりに外苑前のカフェのテラスで「ザ・マインド」に興じたりする時間も、まさに「無意味だけど楽しい」であって強度がある。
こういう時間と感覚をもっと大切にしなければ、と30代半ばの今、改めて思うわけです。

それでは近々、赤坂のベトナムでまったりしましょう。

2022.06.18
はるん