ぶっちー、
おボンジュール。
一昨日の地震、大丈夫でしたか?
我が家は結構揺れたけど、娘は爆睡でした。
赤ん坊には輸送本能とやらがあるらしく、車のチャイルドシートに乗ってる時とか大体爆睡するんだけど、揺れるのが心地良いみたい。
とは言え地震、怖いですね。
忘れた頃にやってくるけど、お互い気をつけましょう。
さて、このブログ、ついに「150」のマイルストーンに到達しましたね。
足掛け約7年、長いような短いような道のりでした。
今後もこのペースでいくと仮定すると、、
2029年(ぶっちー43歳、俺42歳):「300」到達
2036年(ぶっちー50歳、俺49歳):「450」到達
2043年(ぶっちー57歳、俺56歳):「600」到達
2050年(ぶっちー64歳、俺63歳):「750」到達
2057年(ぶっちー71歳、俺70歳):「900」到達
てな感じだね。
もっとも、ここ3ヶ月のペースを今後も維持したら、もっと速いペースで記事が増えていくことになるけど。
Only the God knows.
さて、先週はまたしても迅速なお返事ありがとう。
お返事のメイントピックが、俺が前回の長文で冒頭にちょろっと書いた「ルーティーン」についての話で笑いました。
そこかよ!っていう。
1時間の講演後に「何か質問ありますか?」と参加者に聞いたら、冒頭3分のアイスブレイキングトークに対する感想しか出なかったような、そんな気分。
まあ、これだから面白いんだけどね、交換ブログ(だったブログ)は。
毎週金曜にだいたい記事がアップされるので水曜夕方くらいからソワソワし始めて、何度か「ここで先に私が書いたらハルくんびっくりするかしらん」と妄想して編集ページを開いては緊急Slackに対応するという3日間を過ごしました。
更新が近づくとソワソワしてもらえるのは、書き手冥利に尽きるね。
で、満を持して更新しようと思った矢先にぶっちーに先を越されたら「ちょ、おま!」ってなるね、絶対。
なるけど、そういうハプニングは俄然ウェルカムだね。
自分のルーティーンはなるべく守りたいけど、他者の愉快な乱入によってルーティーンを崩されるのはやぶさかではない、そんなお年頃。
乱入、待ってます。
カントのルーティーンについてだけど、偉人は意外と確固たるルーティーン持ってた人多いよね。スティーブ・ジョブズが黒のタートルネックしか着なかったように、無駄な認知領域を使わない、脳に隙間を生み出すための有用な手段の一つではあると思う。
確かにね、日々の生活にある程度のルーティーンがあると、日常における些末な問題をあまり考えなくて済むから、より哲学的な思索などに頭を使える気はする。
スティーブ・ジョブスじゃないけど、俺も最近、毎日ほぼ同じような格好をしている。
今思うと、10代や20代の頃は、毎日着る服を選ぶのと買うのにどれだけ無駄な時間とお金を使ったことか!
いや、当時の自分にとっては決して「無駄」ではなかったし、自分のアイデンティティを模索するプロセスの一部だったと思うんだけど、それにしても随分「消費」したよなと。
その時間とお金を、もっと読書とか旅行とかに費やしていたらと今なら思うけど、まあ思春期に服装や髪型を気にしたり、どうすれば女の子にモテるか考えたりするのもきっと大事な人生経験だよね(モテなかったけど)。
高校生の頃、メンズノンノとか読みながら表参道の美容院に通っていた私、今は980円カットで有名な「IWASAKI」の平日タイムサービス690円カットで大満足。
人はこうして「おっさん」になってゆくのだな、としみじみ思うのでした。
さて、ここから本題。
そうそう、ルーティンと隙間時間の話だよね。(今日も思い込みが絶好調です)わたしが最近実践している生活の中に隙間を見つける取組みを紹介するね。
- 朝、ベッドでSNSを開かない
- 昼、惰性でSNSを見ない
- 夜、ベッドでSNSを見ない
とにかくSNSを見ないようにしてる。去年くらいから、友達のフォローの大半を外して、美術・教育・料理・スコッチウイスキー・好きなスノボ選手など自分の興味に絞ったフォローに切り替えたんだけど、どうしても興味のないことも流れてきて、うるさいなって思うようになったから、しばらく距離を置こうと思ってる。人の声ばかり聞いてると、自分の内なる声を発する機会が減る気がして避けてみてる。
SNS問題ね。
ぶっちーの問題提起(?)を受けて、俺も今一度、SNSについて考えてみたいと思います。
俺、ひと昔前はSNS中毒だったけど、5年前くらいに一式(Facebook、ツイッター、インスタグラム)やめました。
最初は「朝、ベッドでSNSを開かない」とか「昼、惰性でSNSを見ない」ようにしてたんだけど、ベッドにいる時間が長くて惰性に流されやすい俺はついつい見ちゃうので、もうやめちゃえと思ってアカウントごと消しました。
で、何でSNSと距離を置こうと思ったかというと、よく覚えてないんだけど多分、人生が色々うまくいかなくて、人と関わるのが嫌になっちゃったんじゃないかな。笑
自分の人生についてちゃんと考えなきゃいけないのに「人の声ばかり聞いてると、自分の内なる声を発する機会が減る気が」したというのもあると思う。
SNSに自分の人生を縛られている気がしたし、自分がSNSを現実逃避ツールとして使っている気もして、これはマズいなと思った。
まあそんなこんなでSNSをやめて5年ほど経つけど、今のところ特に不自由なく暮らしているし、読書量が増えたり人間関係が整理できたり収入も多少増えたり(SNSとの因果関係はわからないけど)、総じて良かったんじゃないかな。
物書きの端くれとしては、SNSをやめてから、ツイッター的な短くてキャッチーな文章じゃなくて、それなりに構成された長文を安定的に書けるようになったと思う。
まあ、ぶっちーには「NAGAAAAAAAAAAAAAAI」と言われてしまうし、実際もっと上手くまとめる余地は大いにあると思うんだけど、以前は長文をコンスタントに書き続ける基礎体力がそもそもなかった。
この前、このブログを始めたばかりの頃に自分が書いた記事を読み返したら、あまりの短さと内容の薄さに「え?」と思ってしまった。
何というか、50メートル走ったらもう息切れして立ち止まってる感じ?
ぶっちーの記事が短くて軽い(感覚的に)のはある種の芸風というか、俺の長文とのコントラストで良い味を出している気がするんだけど、その演出のためにも俺の方は、それなりの長文を書けないとダメなんじゃないかと。
多分、以前はSNS的なコミュニケーションスタイルが自分の身体に染み付いてて、自分の主張を時間をかけて丁寧に説明するとか、問題を深く掘り下げて考えるとかいう発想も技術も体力もなかったんだと思う。
まあ、今書いてるこの文章も7年後に読み返したら「え?」と思うのかもしれないし、そう思うくらい今後レベルアップしていきたいとも思うけど。
SNSの話だったね。
一口にSNSといっても色々あるし、使い方も人それぞれだから一概に良いとか悪いとか言えないけど、少なくとも今の俺にとっては必要ないかな。
そのうち、自分で何か商売を始めたりとか、このブログを何が何でも世に広めたいとか思ったら、宣伝(布教)のためにツイッターとか再開するかもね。
ぶっちーが「友達のフォローの大半を外して、美術・教育・料理・スコッチウイスキー・好きなスノボ選手など自分の興味に絞ったフォローに切り替えた」ように、SNSを交流ツールとしてではなくRSSリーダー的な情報収集ツールとして使うのはアリだなと思って俺も試したことがあるんだけど、やっぱり「どうしても興味のないことも流れてきて、うるさいなって思うように」なってしまって。
SNSのタイムラインを開くときって大体、何か明確な目的があるわけではなく「何となく暇だから」「手持ち無沙汰だから」というのが理由じゃない?
もちろん、何気なくタイムラインを眺めていたら「お、これは!」と思うような記事とかに出会うことも稀にあるんだけど、打率はかなり低い。
何でかって考えると、単純に「世の中には面白い記事が少ない」って話かもしれないけど、自分自身が情報やコンテンツに対してハングリーな状態じゃないと、せっかく面白い情報やコンテンツに触れても「ふーん」で終わっちゃうんじゃないか?
SNSに限らず、日常的に大量の情報に触れていると、情報に対するハングリー精神や感度が下がっちゃって、絶え間なく飛び込んでくる情報を「うるさいな」って感じるようになっちゃうんじゃないか?
何らかの情報を取得したりコンテンツに触れる上で、自分のタイミングや気分って重要じゃない?
例えば俺、MLB好きだけど、それでも「今はMLBのニュースなんて見たくない」っていうときはある。
内田樹の著書はおそらく30冊以上読んでるけど、それでも「今は内田樹の文章はマジ勘弁」っていうときもある。
このブログだって、ぶっちーが「今はハルくんの記事読みたい気分じゃない」っていうときもあるだろうし、毎週金曜日に勝手に長文送りつけて悪いな、ってちょっと思うんだけど(ちょっとだけね)。
お腹いっぱいの時にご馳走を出されても楽しめないように、たとえ面白い情報やコンテンツであっても、それを強く求めているタイミングじゃないと貪欲に吸収できないというか。
対象に対する自分のテンションが自然と高まったときに、自らその対象に触れに行くのが最も吸収率が高いというか。
たとえば俺、最近よく美術館に行くようになったんだけど、いつもアンテナ張ってアート情報をフォローしてるわけじゃなくて、ふと「美術館行きたいな」って思った時に東京や横浜で開催中の企画展をバーって調べて、行きたいと思ったものを全部メモしたりするね。
で、後日、自分のメモを見返して「この企画展、明日で終わっちゃうから今日行こう」と思ったりとか。
もちろん、たまたまテレビで紹介されてた企画展が面白そうだったから足を運んだとか、そういう受動的な情報取得からのアクションもある。
あるけど、俺の場合はそういう情報取得の機会が極めて限定的というか、情報ソースをかなり絞っている(つもり)。
具体的に俺が今、SNSのタイムラインみたく日常的に触れているメディアと言えば、MLB.comと日本経済新聞(デジタル版)、それからNHK Eテレ(娘が生まれてから)の3つだけじゃないかな。
たまに国際人ぶってBBCとかニューヨークタイムズも読むけど、大体はヘッドラインをざっと眺めて、たまに気になる記事があったら本文も読む程度。
こんな感じでウェブやテレビを見る時間は激減したけど、先述の通り読書量は増えたよ。
世の中にはジャンク本も多いから一概には言えないけど、良質な読書は「情報」ではなく「体験」だと思っていて、ネットサーフィンやSNSとは根本的に異なる行為だと捉えている(音楽や映画も「体験」)。
世の中にはジャンク本も多いから一概には言えないけど、良質な読書は「情報」ではなく「体験」だと思っていて、ネットサーフィンやSNSとは根本的に異なる行為だと捉えている(音楽や映画も「体験」)。
ただ、読書にしても毎日いつも読んでるわけじゃなくて、自分が活字に対してハングリーモードになった時に複数の本を一気に読むし、一気に買う。
最近は、たまに二子玉川の蔦屋書店とか大型の本屋に行って、スーパーで買い物する時みたいにカゴを持って、気になった本を片っ端からカゴに入れて、自分の「読みたい本リスト」を一気に更新したりもする。
これ、頻繁にはできないし、2時間も本屋を歩き回ったら疲れるから、限られた時間で最大限の収穫を得ようと結構真剣モードになる。
ベッドでゴロゴロしながらAmazonのリコメンド商品を眺めているときは、こんな風にはならないね(よくやるけど)。
SNSというより「情報とどう接するか」みたいな話になっちゃったけど、最近よく思うのは、本当に重要な情報というのはインターネットにもテレビにも本にも載っていなくて、自分の足でどこかに行ったり人に話を聞いたり、あるいは自分から情報を発さないとなかなか得られないんだ、ということ。
これは今、グローバル大企業で仕事をしていて特に感じることなんだけど、その話を始めるとまた長くなりそうなので、そのうち気が向いたら書こうかな。
ふう。
ところで、明日は待ちに待った新年会ですね。
我々のことですから、今からリスケになっても驚きませんよ。
できれば2022年中、遅くとも2023年の第一四半期中にはやりましょう、新年会。
え、明日の新年会は今年のではなく、2021年度の新年会だって?
そろそろ飽きたので、ここらで筆を置きます。
また来週(あるいは明日)会いましょう。
P.S.
また来週(あるいは明日)会いましょう。
P.S.
今週の一曲は、俺がKLに住んでいたときにラジオでよく流れていた2018年のヒット曲、チャーリー・プースの"How Long"。
この曲を聴くと、夜にタクシーの窓から見える白銀に光り輝くペトロナスツインタワーを思い出して、少しおセンチな気分になるのです。
この曲を聴くと、夜にタクシーの窓から見える白銀に光り輝くペトロナスツインタワーを思い出して、少しおセンチな気分になるのです。
2022.03.18
はるお
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