ぶっちー、

おこんにちは。
先週も迅速なお返事ありがとう。
ラナンキュラスで球春到来、いいですね。
俺はこの時期、日に日に日照時間が長くなっていくのを味わうのが好きです。
最近は毎日、ほぼ同じ時間に起きて、ほぼ同じ時間に出かけて、ほぼ同じ時間に帰るという判で押したようなルーティーン生活をしているから、朝陽が差し込む時間が早くなったとか、日が暮れるのが遅くなったとかいうことが体感でよくわかる。
哲学者のエマニュアル・カントは毎日、同じ時間に同じ道を散歩していたそうで、近所の人たちは「カントがちょうど通り過ぎたから今16時」といった具合に現在時刻を把握していたとか。
いわゆるルーティーンワークは好きじゃないけど、ルーティーンライフは割と好きです。

さて、今週もNAGAAAAAAAAAAIお返事を書きますよん。
覚悟して読んでください(もし途中で飽きたら、脳内の「いつか読むかも」フォルダに入れといてください)。

ハルくんは知らないかもしれないけど、わたしオンラインや電話のコミュニケーションでも対人と同じくらい緊張しますです。
わたし多分、普段すごく言語以外の情報に頼って生きている人間なんだと思う。
その人がつけてる香水とか、デスクに置かれたサングラス、ハンドクリーム、使ってるカバン、履いている靴。
そういうものからキャラ分析チャートにマッピングして、(そんなにたくさんのバラエティがあるわけでもない)チャンネルの中から、どの自分でやりとりするかチューニングしてるんだと思う。
ただそれが概ね画面外の情報から推察してるもんで。
もう脳内「NO DATA」のシグナルが絶えず点滅。ときどき語尾とか息づかいから独裁者タイプだな、今テンション上がったんだなって察することはあるけど、まあほとんどわからない。
そんなふうに気を遣ってたら、通勤なくなって束の間、非常に疲弊しました。

確かに、緊張という観点で言うと、俺は対面よりオンラインの方が緊張するかも。
ぶっちーが言う通り、オンラインだと画面外の情報が取得できないから、言語情報に頼る比重が高まって、発言の解釈や補足説明にかなり気を遣う。
この前、クライアントである某巨大広告代理店相手にオンラインでプレゼンテーションしたんだけど、会議を始めた直後、異様に緊張したのね。
相手側が思ったより人数多くて(8人)、しかも全員が俺とは初対面、さらにカメラをオフにしている人も複数いて「向こうからは俺の顔が見えているが、俺は向こうの顔が見えない」という目隠しプレイみたいな状況で一人話さなきゃいけないという事態に、心臓がバクバクし始めた。
いざ話し始めたら、緊張が解けて落ち着いたんだけど、暗闇に向かって話しかけているような感覚は変わらずで、今更ながら「なるべくカメラをオンにしてもらえますか?」って最初に言えば良かったなと思う。
オンライン会議において、相手の「表情」はかなり貴重な情報だから、それが全く見えないのは苦しい。
そう考えると、あまり意識したことはなかったけど、実は俺も言語以外の情報に頼って人とコミュニケーションしていたんだな、って思う。
持ち物や服装もそうだけど、表情、目線の動き、声のトーン、手足や指先の動き、その場の空気感、匂い、などなど。
実はこういった要素を貴重な情報としてインプットしながら、その上で言語的なコミュニケーションを行なっていたんだな、と。

ちなみに最近ちょっと違う意味で緊張したのが、今の仕事において重要なパートナーであるインドの分析チームとの会議。
というのも、インド訛りの英語が全然わからなくて、ヘッドフォンを両耳に押し付けながら全神経を集中させてリスニングしてたら疲れた。笑
同席したメンバーの1人(たぶん中東系)が「インド英語→日本人にもわかりやすい英語」に同時通訳してくれて、それを聞いて俺がコメントを返すというスタイルで、何とか会議が成立した。
その会議ではインドのチームにやってもらう分析の詳細を詰めないといけなくて、もしミスれば俺がクライアントに謝罪&数百万の売上が吹っ飛ぶから、1時間弱の会議でも異様にアドレナリンが出て、会議後は数分間のクールダウンが必要だった。笑
でも、これは割と心地良い緊張感で、嫌な感じはなかったね。
日本人相手に日本語を話すときは、失礼のないよう細かいニュアンスや表現にかなり気を遣うけど、インド相手なら「まずは認識の齟齬がないように」と目的オリエンテッドになれるからかな。

ちなみに親しい友達との電話でも、病院の予約の電話でも息切れするほど緊張できる。
大袈裟な話、もう100回は経験したはずの転職の面接も吐きそうなくらい緊張する。
でも、だいたいいつも相手には緊張が伝わってなくて、終了5分前に「リラックスしてざっくばらんにお話しできてよかったです」とか言われる。
理不尽この上ない話ですよ、ほんとに。ぷんぷん。
テクノロジーが発展してるんだから、画面の右上にスマートウォッチと連動してストレス値とお世辞パーセンテージくらい表示できないのかな。

これは一体、どういうことなんだろうな。

というのも、面接のような場で一般的に人は「緊張を隠そう」とすると思うんだけど、もしぶっちーが言う通り相手にはぶっちーの緊張が全然伝わってないのだとしたら、ぶっちーの緊張を隠す能力、カモフラージュ技術はかなり高いということで、それは社会的に有用な能力だよね。
でも、ぶっちーの文章を読むと、ぶっちーには「表面的には緊張を隠したい、でも本当は緊張していることはわかって欲しい」という思いがあるように見受けられる。
緊張を隠す技術を持っていることと、一方で緊張しやすい性格であることを同時に伝えたい、でも後者は伝わらなくてもどかしい、ということだろうか?
自分は「緊張しない人間」などではなく「緊張するけどそれを表には出さないようコントロールできる人間」であると理解してほしい、ということだろうか?

ぶっちーが書いている話とはちょっと違うかもしれないんだけど、俺は前職で一時期、オンライン会議の度にかなり緊張していたことがあって、ちょっと自律神経失調症みたいになっちゃって、でも周りのメンバーたちには多分伝わっていなくて、半年ほど経ってようやく「しんどいです」と言ってプロジェクトを抜けたことがある。
それまで「もうやめたい」と「でも頑張らなきゃ」の狭間をずっと行き来してて、日に日にしんどくなるんだけど「しんどいです」となかなか言えなくて、俺の不調に何となく感づいていたと思われるメンバーの一人に背中を押してもらってようやく「やめます」と言えた。
この半年間は、かなり辛かった。
もっと早くやめるか、あるいは一度メンバーに対面で会って、ランチでもしながら「僕ちょっとしんどいんですけど、、」って相談すれば良かったな、って思う。
ずっとオンラインだけでやり取りしてたから、それこそ周りの人たちは俺の精神状態や感情について「NO DATA」だったわけで、もっとデータを開示する機会を作っても良かったな、と。
この時の反省から、今は「一緒に仕事をしているメンバーとは、たまに会ってお茶かランチする」ことを心がけようと思っていて、今週も2日ほど都心に出向きました。
「週1日出社」とか「週2日出社」みたいなルールを設けている会社はナンセンスだと最近まで思ってたけど、実は結構良いルールなのかもしれない、と思ったり。

長いなっていうのと別にもう一つ感想があって、暴力っていう言葉が引っかかって。
その言葉を使う目的はわかるんだけど、手段として分かりやすさはあるけど引っかかるチョイスだなって感じた。
あやこ、わたし

力:何らかの影響を外界に与えること

暴力:なにか理不尽な状況を生み出すこと

だと思うの。だけど、交渉ごとを人当たり良く進めるのは力であって、必ずしも「暴」はつかなくてもいいんじゃない?オンラインで用件だけ伝えて背景を伝えない乱暴なコミュニケーションだって暴力的だと思うし、
暴力と力の区分が受け入れ難いのよ。

なるほど、そう言われれば確かに。
もうちょっと掘り下げて考えてみよう。
(ここから先、読むと疲れるぞ注意ゾーン。ん、もう疲れてる?)

例えば交渉を行うこと、それ自体は単に「力」の行使であり、必ずしも「暴力」ではない。
お互いが「何らかの影響を外界に与え」ようとしているが、必ずしも「なにか理不尽な状況を生み出す」わけではない。
いや、本当にそうか?
確かに、交渉が成立したらそれは「お互いが納得した」ということで、理不尽な状況ではないはずだけど、しかし交渉成立までの過程でそれぞれ何かと妥協をしたり、受け入れ難い相手の要望を仕方なく飲んだり、「それは理不尽だ」と思う場面はあったはず。
つまり、交渉とはお互いが「この程度の理不尽なら許容できる」というポイントを探っていくプロセスであり、どれだけ穏便に進めたとしてもそれは変わらないのではないか?
そもそも交渉が始まるキッカケは、少なくともどちらか一方が「今の状況は理不尽だ」と思うことではないか?
例えば、メルカリで値下げ交渉を行う人は「もっと安く買いたい」と思っているはずで、それは即ち「今の値段は高すぎる(=理不尽な価格設定だ)」と認識している状態と言える。
で、「安くできませんか?」というコメントを見た出品者は、そのコメントを「理不尽だ」と思うかもしれないけど、とはいえ買ってもらいたいから「そこまで大幅な値下げはできませんが、これくらいなら」と提案する。
その後、お互いに「この値段ならOK」という落とし所を探っていくわけで、それはまさに「お互いが許容できる範囲の理不尽」を模索するプロセスと言える。
そもそも、商品に価格をつけて市場に出すという行為は、常に誰かにとって理不尽な状況を生み出すとも考えられる(そんなもの要らない、値段が高すぎる、と思う人がいるわけで)。
そう考えると、あらゆる商売や経済活動、交渉ごとは、どうしたって「誰かにとって理不尽な状況」を生み出してしまうし、それ故に暴力と言えるのではないか?

…というのは、単なる屁理屈による暴論だろうか?
逆に「暴力ではない力」にはどのようなものがあり得るか、考えてみよう。

再びますぶちさんの定義を使わせてもらうと、「何らかの影響を外界に与えるが、理不尽な状況は生み出さない」という行為が、暴力ではない力ということになる。
それは具体的に、どういう行為だろうか?
例えば、今パッと思いついたけど、ボランティア活動はどうか?
発展途上国に学校を作る、被災地に寄付をする、地元のゴミを片付ける、何でもいい。
ボランティア活動によって、助かる人、喜ぶ人がいる。
寄付やゴミ拾いをしてもらって「理不尽だ」と感じる人は、多分いない。
いや、本当にそうか?
例えば、マスコミであまり報道されなかったために寄付が集まらなかった被災地Aは、多大な寄付を受けている被災地Bを見て「この状況は理不尽だ」と怒るかもしれない。
ボランティアのゴミ拾いによって仕事を失った清掃員のおじさんは「世の中は理不尽だ」と嘆くかもしれない。
ボランティア活動の直接的な受益者にとっては良いけど、その周辺にいる人たちにとって理不尽と感じられる状況を作り出す可能性はゼロではない。
いや、直接的な受益者と思われる人でも「俺たちは今の生活で満足だから、そんな余計なことをするな」とか思う人もいるかもしれない。
このように考えると、力を行使して何らかの影響を外界に与える以上「理不尽な状況を生み出さない」ということは不可能で、やはりどうしたって誰かにとって理不尽な状況を生み出してしまうのではないか?
そして、何らかの影響を外界に与えることが常に理不尽な状況を生み出すのであれば、例えば歩くことや息をすることさえも、やがて誰かにとっての理不尽につながるのではないか?
バタフライ効果みたいな話だけど、人は生きている限り何らかの影響を外界に与え続けているわけで、生きるという行為そのものが暴力であるとも言えるのではないか?
暴力性が「ゼロ」ということはあり得なくて、せいぜい「値が大きいか小さいか」そして「プラスかマイナスか」といった程度問題に過ぎないのではないか?

…というのは、やはり屁理屈の暴論だろうか?
暴論かもしれないが、俺なりの結論を整理すると、、

  1. ぶっちーが言う通り、「力」と「暴力」は区別して考えることができる
  2. 両者の違いは「何らかの理不尽な状況を生み出すかどうか」である
  3. しかし、あらゆる「力」は必ず「何らかの理不尽な状況」を生み出す
  4. 故に、「力」は全て「暴力」である
  5. ただし、それは必ずしも悪ではなく、使い方次第でプラスにもマイナスにもなる

確かに、誰も「それは暴力だ」なんて思っていないことを「暴力」と呼ぶことには違和感もあるけど、「暴力」という言葉が持つネガティブなイメージを取り払って考えると、あらゆるコミュニケーションは多少の理不尽を生み出すという点で「暴力」と言えるように思う。
例えば「オンラインで用件だけ伝えて背景を伝えない乱暴なコミュニケーション」はわかりやすく暴力的だけど、オンラインで背景をしっかり伝えた上で相手に気持ちよく仕事をしてもらう、というのも「相手を意のままに動かす」という点で暴力と言えると思うし。
今の世の中の価値観では、誰もそれを「理不尽だ」なんて思わないかもしれないけど、一方がもう一方に指示をしたり仕事を依頼するという状況は、両者の関係が対等でないという点でやっぱり「理不尽」と言えるんじゃないだろうか?
そして、世の中に「完全に対等な人間関係」なんてあり得ないから、全ての人間関係は「理不尽」であり「暴力」なのではないだろうか?

ふう。
今週もNAGAAAAAAAAAAAAAくてすみません。

俺は子供の頃から親に「お前は屁理屈だ」と言われながら育ったけど、やはり屁理屈ばっかり言ってた昔の同僚が「屁がつかねえ理屈なんてこの世にねえんだよ」という名言を残していたのを今も覚えてて。
それならば屁理屈をやめるのではなく、逆に屁理屈をとことん追求していこう!などと思い今に至る。
まあ、モテないけどね、屁理屈は。

では、良い週末を。

P.S
先日、Netflixで『バーレスク』を見たんだけど、主演のクリスティーナ・アギレラがエロ可愛すぎて、思わずYouTubeサーフィンしたら懐メロがたくさん出てきたので、1999年発表のデビューアルバム収録曲をここに載せておきます。
当時18歳にしてこの色気と表現力!



(オマケ)2011年にMaroon 5とコラボしたヒット曲。


2022.03.11
はるお