ぶっちー、
ボンジュール。
先週は迅速すぎるお返事どうもありがとう。
ぶっちーと俺の文量差が、なかなか良い味を出し始めてきたんじゃないかと勝手に解釈している今日この頃。
たくさん書けば良いってもんじゃないよな、と言いつつ、今日も書きます。
ウクライナが早く平安を取り戻せるためにわたしにできることは一体なんだろうと考えている。気を揉みすぎず、落ち込みすぎず、悲しいなあと思いながら日常を暮らすことを選んでいる。
上記の文章を読んで、俺も「俺にできることは一体なんだろう」と少し考えてみたけど、ぶっちーが書いていた通り「気を揉みすぎず、落ち込みすぎず、悲しいなあと思いながら日常を暮らすこと」かなあ、と思いました。
世界的な大事件の発生を実は喜んでいるようにも見えるマスコミのニュースに一喜一憂せず、自分の日常を淡々と生きること。
自分の目で直接見たわけでもない戦争の情報に頭を抱えて動けなくなる前に、まずは自分の家庭や職場や地域社会が平安を保てるよう努めること。
というのが、俺みたいな庶民がまず為すべきことなんじゃないか?と思いました。
その上で、じゃあ異国の戦争に無関心でいること、見て見ぬ振りをすることが正しいのかというとそれも違うと思うので、今起きている問題について、自分なりに考えてみたいと思います。
ロシアが云々、ウクライナが云々という個別具体的な話ではなく、戦争というものの根元にある「暴力」について。
「暴力」って、ポジティブな意味で使われることは少ない言葉だと思うけど、人間が生きていく上で必要不可欠なものだと思うんだよね。
例えば、人間は動物や魚の肉を食らうけど、それは人間が動物に対して暴力を行使したからじゃない?
ベジタリアンにしても、その辺に生えている野菜や葉っぱを引っこ抜くのは、暴力と言えなくはないし。
人間同士のコミュニケーションにおいても、そこから「暴力的なもの」を一切取っ払ってしまったら、コミュニケーションが成り立たないんじゃないか?
というか、あらゆるコミュニケーションは何らかの「暴力的なもの」を含んでいるんじゃないか?
たとえ殴ったり蹴ったりしなくても、言葉や態度で精神的な圧力を相手にかけたり、逆に優しく振る舞うことによって相手を意のままに動かしたり。
暴力というのは、人間が生きている限りゼロにはできない、ある種の必要悪ではないかと思うのです。
もっとも、暴力は必ずしも悪ではなくて、例えば今、ロシア政府に対する反戦デモが世界中で起きてるけど、あれも一種の暴力だよね。
戦争ほど露骨に人に危害を加えないけど、自分たちの主張を押し通すために物理的な力を行使しているわけで、戦争という暴力に対して暴力で対抗しているわけだ。
自衛隊や警察も、多くの人が必要と認めている暴力だし、戦争だって十字軍からイラク戦争まで「正義の戦争」はたくさんあったわけだし。
暴力をゼロにすることはできないし、使い方次第でプラスにもマイナスにもなるから、いかに暴力と上手く付き合っていくかが重要なんだと思う。
暴力といえば先日、元外交官・佐藤優と精神科医・斎藤環の対談本(https://amzn.to/35CsjzW)を読んだんだけど、その中で「人に会うという行為は、暴力だ」という話があって、目から鱗だったのね。
ぶっちーはこのフレーズだけでピンと来たかもしれないけど、具体的な説明をいくつか引用します。
まずは、「ひきこもり研究の第一人者」とされる斎藤環の発言。
人に会うというのは、どんなに相手が優しい人であっても、お互いが気を遣い合っていたとしても、それぞれの持つ領域を侵犯し合う行為なのです。相手の境界を超えなければ、会話自体が成り立ちませんから
私自身、対人恐怖症気味、発達障害気味の人間で、人と会うのは基本的に苦痛なのです。約束の時間が近づくと、妙に緊張したり不安になったりもします。ところが、不思議なことに、実際に会って話をすると、とたんに心が楽になる。毎回この繰り返しで、会えば楽になるのが分かっているのに、会うまでは苦痛を感じたりするわけです
(人に会うという行為は)「あの人に会わなくてはならない」という気の重さのようなものと、「久々に会えて嬉しい」といった感情という両義性を内包する
この感覚は、対談相手の佐藤優も言ってるけど「そうそう!」と共感する人が多いと思う。
相手が親しい人なら気楽、というわけではなく、むしろ親しい人と会う方が気が重かったりする。
親しければ親しいほど、握手とかハグとか物理的な接触も増えることが多いし、ある意味「会うことの暴力性」は高まるのではないか?
どうでもいい人と事務的な話をするだけなら、そこまで気が重くならないし。
では、どうして人間はわざわざつらい思いをしてまで、人と会おうとするのでしょうか?
という佐藤優の質問に対して、斎藤環の回答は…
身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれませんが、「会ったほうが、話が早い」からだというのが、現時点での私の結論です。考えてみれば、これは暴力の本質でもありますよね。
このコメントを受けて、外交官としてモスクワ駐在歴のある佐藤優は…
それは確かにそうです。(笑)考えてみれば、私が長年関わってきた外交などはその典型です。あの仕事は会わなければ始まらない。対面であるがゆえにある種の精神的、身体的な圧力を伴い、だからこそ、お互いに真剣に交渉を展開し、譲歩を引き出せる可能性が生じるわけです。交渉の途中で物理的に遮断できてしまうリモートでは成立しない。怖いから交渉は成立するんです。斎藤さんが指摘されるように「話が早い」というのは、暴力的だということです
この二人の会話は「コロナでリモートが当たり前になって、人とリアルで会うことの意味が浮き彫りになった」という文脈で出てくるんだけど、俺も確かにリモートワークをするようになって、他人からの圧力を感じる機会が減ったなって思う。
それで以前より気楽にはなったんだけど、一方で物足りなさを感じることも結構あって、もう少し他人と圧力をかけ合っていないと生きた心地がしない、という感覚も正直ある。
オンライン会議やチャットでも暴力性はゼロじゃないし、対面より気を遣う部分もあるんだけど、やはり生身の肉体を伴わない分、良くも悪くも生々しさがないというか。
例えば、単なる情報交換とか事務作業の擦り合わせなら、オンライン会議やチャットで全然いいんだよね。
例えば、単なる情報交換とか事務作業の擦り合わせなら、オンライン会議やチャットで全然いいんだよね。
でも、利害が一致しない相手とタフな交渉をしたり、自分と異なる考えを持つ他人を動かしたりするには、リモートでは限界がある。
「もし相手を怒らせたら殴られるかもしれない(し、自分も殴るかもしれない)」という状況に身を置くというリスクを取らないと、一定以上の深いコミュニケーションはできないのだと思う。
ロシアとウクライナの代表団による停戦交渉は、たとえ一刻を争う状況でも電話やオンラインで済ませることはできず、お互いの身体を突き合わせなければならないように。
ちなみに、両者が停戦交渉をする「場所」で揉めたという話が興味深いなと俺は思ったんだけど、その話はまた今度。
さて、日々の仕事の話に戻ると、先述の通りリモートでできる仕事って限られていて、個人で完結する小さな仕事とか、人と摩擦を起こさず波風立てずに言われたことを黙々とやるような労働はできるけど、他人を巻き込んで物事をダイナミックに動かそうと思ったら、やっぱり会わないと難しい。
それ故、組織の重要な意思決定に関わっていたり、世の中のルールを作る側にいる人たちは、今も対面で頻繁に会っていて、会うことの暴力性をうまく活用しているのではないか?
そして、これは佐藤優も書いていたけど、他人とのコミュニケーションにおいて暴力性の活用が上手な人は、例外なく人当たりがソフトだと思う(暴力が暴力だとバレないようにするから)。
逆に「通勤電車に乗らなくて済んでラッキー!」と喜んでいるのは、自分の身を暴力性に晒すリスクを取らず、安全だが退屈な賃労働に甘んじているサラリーマンの奴隷根性なんじゃないか?
いや、俺自身がそうだから自戒を込めて書いてるんだけど、でも最近、毎日PCの前でエクセルいじったりオンライン会議してるこの日々は何かおかしいな、って感じ始めたのよ。
コロナによって経済格差が広がった、二極化が加速したと言うけど、今も大事なことは会って話している一部のエリート層と、リモートワークという耳障りの良い言葉で自宅に押し込められている大多数の労働者に、大きく二分しているのではないか?
まあ、どうせ労働するなら通勤がない方が良いし、「いやいや私は労働者でいいんです、人と会うときの圧力が苦手なので」って人も結構いるとは思うんだけど。
でも俺の場合は、自分が社交的な人間とはあまり思わないけど、ときどき人に会って自分に圧力をかけた方が、生きるためのエネルギーを保ちやすい人間なのだと感じている。
放っておくとすぐ引きこもりになっちゃう自覚があるから、ある程度は意識的に外出して人に会って、暴力性に対する耐性を適度に高めておく必要があると感じている。
というわけで一昨日は、まだ一度も対面で会ったことがなかったアメリカ人の上司を呼び出して、彼が住んでいる麻布十番のイタリアンでランチしました。
そのとき面白かったのは、俺が「オンラインでは何度も話してるけど、リアルで会うのは初めてですね」と言ったら、彼が驚いた顔で「え、そうだっけ?会ったことなかったっけ?」と言ったこと。
彼は「最近、誰とリアルで会ったことがあって誰と会ったことがないか、わからなくなっちゃうんだよね」とも言ってた(まあ、これは俺へのフォローかもしれないけど)。
実は前職でも同じことがあって、オンラインでは100回くらい話してたけど一度も会ったことなかった上司(例のスーパーコンサルタントです)に初めて会ったとき、俺が「初めまして」と言ったら「え?対面で会うの初めてだっけ?」って驚かれた。
まあ、管理職は色んな人と話す機会が多いからいちいち覚えてられないのかもしれないけど、対面で一度も会ったことない人を「会ったことがある」と勘違いするのって、俄かには信じ難い。
俺的には、同じ人でもPCモニターで顔だけ見るのとリアルで全身を見るのでは印象が結構違うし(この人意外と背高いな!とか、質感がイメージしたとのと違う!とか)、「リアルで会ったことない人」と「リアルでも会った人」の間に明確な線引きがあるんだけど、皆そんなに気にしないのかな。
アナログ人間と言われるかもしれないけど、俺は「自分の目で見る」とか「物理的な空間を共有する」ということが結構重要だと思っていて、バーチャルなものに今ひとつリアリティを感じられないんだよね。
ふう。
最後に、「会うことは暴力」という話に戻るけど、俺も含めて日本人って特に暴力性に晒されることが苦手というか、他人と向かい合ってコミュニケーションするときに発生する圧力に弱い人が多いんだと思う(だから外交やビジネスも弱い)。
大人数でワイワイやるとか、カウンターで横並びで座るとかは良いけど、face to faceで向かい合って真剣に話をすることへの耐性がないというか、訓練を受けていないというか。
相手を言い負かすとか、自分の要求を一方的に通すということではなく、相手の言い分を聞いて、こちらの言い分もテーブルに出して、その上で折り合いをつける、落とし所を探る、というのが苦手だと思う。
これってまさに「交渉」なんだけど、日本社会には「交渉」の余地があまりなくて、立場が上の人間から下の人間への「命令」が絶対になってしまうのが、大いに問題だなって思う(命令は暴力だね、言うまでもなく)。
俺は最近、そういう理不尽な「命令」を受けたとき、「はい、わかりました」と黙って従うのではなく、かと言って「嫌です」と断固拒否するのでもなく、まずは「確認なんですけど、そのご指示の目的ってこういうことですか?」といった具合に、用件の背景や意図を相手に言語化させるようにしている。
露骨に「命令」する人って例外なく、説明を端折るから(用件さえ言えば通ると思ってるから)、せめて説明責任を果たさせるようにしている(それを聞くまではこちらも動かない)。
で、いざ説明させると目的と手段がイマイチ噛み合ってなかったりして、今度は俺から「それだったら、ご指示いただいた内容より、こういうことをやった方が良くないですか?」といったカウンター提案ができて、それが通ることも結構ある。
こうすることによってコミュニケーションの主導権を奪い、場をコントロールすることができる。
実はこれ、前職で教わったコンサルタントのヒアリング技術の一部なんだけど、日常的に使えるし、相手もだんだん「こいつには安易に命令できないぞ」という風になってくる。笑
「目的は何ですか?」とオープンクエスチョンで聞くのではなく、「お話を伺って、目的はこういうことかなと理解したんですけど、いかがですか?」と仮説をぶつけるのが、ポイントだね。
ちなみに俺は、目的や背景を丁寧に説明しながら、異様に優しい口調で人に「命令」していることが結構ある、という確信犯的な自覚もある。笑
暴力の使い手として一流にはまだまだ程遠いけど、コミュニケーションは常に暴力性を伴うということを意識して、暴力と上手く付き合っていけるようになりたいな、と思う。
大人数でワイワイやるとか、カウンターで横並びで座るとかは良いけど、face to faceで向かい合って真剣に話をすることへの耐性がないというか、訓練を受けていないというか。
相手を言い負かすとか、自分の要求を一方的に通すということではなく、相手の言い分を聞いて、こちらの言い分もテーブルに出して、その上で折り合いをつける、落とし所を探る、というのが苦手だと思う。
これってまさに「交渉」なんだけど、日本社会には「交渉」の余地があまりなくて、立場が上の人間から下の人間への「命令」が絶対になってしまうのが、大いに問題だなって思う(命令は暴力だね、言うまでもなく)。
俺は最近、そういう理不尽な「命令」を受けたとき、「はい、わかりました」と黙って従うのではなく、かと言って「嫌です」と断固拒否するのでもなく、まずは「確認なんですけど、そのご指示の目的ってこういうことですか?」といった具合に、用件の背景や意図を相手に言語化させるようにしている。
露骨に「命令」する人って例外なく、説明を端折るから(用件さえ言えば通ると思ってるから)、せめて説明責任を果たさせるようにしている(それを聞くまではこちらも動かない)。
で、いざ説明させると目的と手段がイマイチ噛み合ってなかったりして、今度は俺から「それだったら、ご指示いただいた内容より、こういうことをやった方が良くないですか?」といったカウンター提案ができて、それが通ることも結構ある。
こうすることによってコミュニケーションの主導権を奪い、場をコントロールすることができる。
実はこれ、前職で教わったコンサルタントのヒアリング技術の一部なんだけど、日常的に使えるし、相手もだんだん「こいつには安易に命令できないぞ」という風になってくる。笑
「目的は何ですか?」とオープンクエスチョンで聞くのではなく、「お話を伺って、目的はこういうことかなと理解したんですけど、いかがですか?」と仮説をぶつけるのが、ポイントだね。
ちなみに俺は、目的や背景を丁寧に説明しながら、異様に優しい口調で人に「命令」していることが結構ある、という確信犯的な自覚もある。笑
暴力の使い手として一流にはまだまだ程遠いけど、コミュニケーションは常に暴力性を伴うということを意識して、暴力と上手く付き合っていけるようになりたいな、と思う。
以上、長文失礼しました。
最後の最後に、先週はウクライナ出身の音楽デュオ、ARTBATを紹介したけど、今週はロシア出身の美しき天才ミュージシャン、ニーナ・クラヴィッツが去年発表したミュージックビデオをご紹介。
ドバイで撮影したというシネマティックな映像は、作曲者であり歌い手でもある彼女自身のアイデアを形にしたものらしいけど、その映像の制作プロセスを紹介したdescriptionが素敵だなと思ったので、併せて載せておきます。
When I started writing "skyscrapers" I was in the middle of a love story that wasn’t going particularly smooth.
This song is about love for another person, the kind of love that is strong and painful but also makes you feel alive.
One night I packed my bag and went to Dubai. When I arrived and saw all these fantastic skyscrapers I realized that I had to film a music video for my new song here and not in Moscow how I planned it at first - with a proper crew and an actual script. After some phone calls I managed to find a camera man. Everything was so last minute and did not have any particular plan. It gave me a right amount of excitement. Instead of writing a script I would just tell the camera man where we were going, what we would be doing and he would then follow and film me. It was so spontaneous. It was a very interesting experience.
The trip ended being a real adventure full of unexpected turns and provided me with a lot of footage to take home. Eventually I cut the footage into a little report with a a little bit of that "lost in translation" vibe.. so I guess you can call me a director here :)
…どう?素敵じゃない?
この文章を読んで、このブログを始めたばかりの頃、リョージくんと一緒に撮影という名の遠足に繰り出していた日々を思い出しました。
思いつきでポン!と行動するフットワークの軽さと、下手でも良いから自分のアイデアを形にすることの楽しさを、これからも大切にしたいですね。
では、今週はこの辺で。
また来週会いましょう。
2022.03.04
はるお
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