ぶっちー、

明けましておめでとう。
今年もよろしくお願いしやす。

さて、新年早々、ご報告がありやす。

僭越ながら、このブログのタイトルを勝手に変更しました。
「アラサー男女の交換ブログ」改め、新タイトルは「アラサー男女の交換ブログだったブログ」です。
これ以外の、良きタイトルが思いつきません。

我々も気付けばアラフォーですが、今後アラフィフ、アラシク、アラセブになっても「アラサー男女の交換ブログだったブログ」ならタイトルを変えずに済むので、もう金輪際これで良いんじゃないか、という気がしています。
「だった」と過去形にした途端、逆に未来への扉が開かれた感が出てきて、何だか不思議ですね。
ブログ誕生から今年で8年目、新たな旅立ちでござんす。

さて、前回エントリーでは一足早いお年玉をどうもありがとう。
年をまたいで、返事を書きまするん。
Q:被写体が自分にリアクションした場合、それはもう被写体ではなくなるのか?
個人的には<カメラ>の存在感が消えている作品が好きかもと思ったことはあるけど、<カメラマン>の気配が残ってる写真の中にも、心にぶっ刺さるものがある。
Q:写真の構成要素はカメラマンと被写体だけなのか。背景は?デコレーションは?被写体を構成する要素は本当に必要なのか。影は?シミやシワは?
伝えたいものだけが適切に写っている写真が最も本質的なのかもしれないけど、 そこに混じり込むノイズが作品をより魅力的にすることもあるんじゃないかな?
なるほど、確かにカメラマンの気配が良い感じに残っている写真というのは、ある気がするね。
俺は、自分の気配を消してこっそり写真を撮ることもあるけど、被写体が人や動物の場合は、会話したりとかコミュニケーションを取りながら写真を撮るのも結構好きです。
写真を撮ろうとしている自分に対する相手のリアクションも混みで、被写体の自然な佇まいが映し出されるような感じがするというか。
「他者は自分を映す鏡」とよく言うけど、自分に向かってリアクションする誰かを撮ることによって、自分自身の姿を撮っているような感覚になることもあります。
もしこちらが緊張していたら、相手も緊張するし、こちらリラックスしていたら、相手もリラックスするように。
撮影者と被写体の境界が曖昧になるような写真は素敵だと思うし、もしかするとそれが<カメラマン>の気配が残ってる写真、ということなのかもしれないな、と今思いました(ぶっちーがイメージしているものとは違うかもしれませんが)。

背景や影やシミも、とても重要な写真の構成要素だと俺も思います。
どんな物語も時代背景や社会情勢を踏まえた文脈で語られることによって奥行きを増すように、あるいは僅か17字の俳句にも季語が必要不可欠なように、周辺情報を適度に含めること、時には人工的にノイズを作り出すことも、魅力的な表現に求められるテクニックのひとつではないかと思います。

例えば、リョージくんが撮ってくれていた我々の写真は、もし背景がなかったら随分と味気ないものになるのではないでしょうか?
サングラスをかけた我々の周辺に、ICUの緑や湘南の海、渋谷の雑居ビルや汐留の夜景が写り込んでいることによって、一枚一枚の写真に物語性が付与されているというか。
また、個人的に秀逸だと思うのが、彼の写真が表現している「距離感」です。
俺とぶっちーの距離感はもちろん、我々とカメラマンであるリョージくんの距離感、また背景である街並みや風景との距離感が、いずれも絶妙に表現されているように感じます。
付かず離れず、近すぎず遠すぎずの、ちょうど良い距離感というか。


「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである」


かの村上春樹氏はデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭に、こんなことを書いていましたが、これは写真についても同じことが言えるのではないか?と思っています。
自分が撮った写真を後で見てみると、自分と被写体(背景含む)との心理的な距離感が何となく垣間見えることがあって、面白い。
そして、この距離感を意識的にコントロールできることが、写真に限らず一流の表現者に求められる条件なのかもしれないな、と思ったりもします。

さて、写真の話はこれくらいにして、そろそろ次のお題に行きましょうか。
ここ(交換ブログ)は私たちの仮想アフタヌーンティサロンだからそもそもこのページを訪れてくれる稀有な猛者たちは、ますぶちという第三者向けにエゴがこぼれ出てるハルくんが自分語りする姿をおっかなびっくり観察しに来てくれていると思う。だけど、私もハルくんも、事前に相手が持っている情報と自分が持っている情報の間を糊付けしていく作業を割と自然にしてきたタイプの人間だと思う(多分それは我々の人生で、その作業を怠ると相手がまったく分かってくれないor勝手な解釈をする場面があまりにも多かったから)
どうも、エゴ垂れ流し男です。

「私もハルくんも、事前に相手が持っている情報と自分が持っている情報の間を糊付けしていく作業を割と自然にしてきたタイプの人間だと思う」とのこと、どうなんでしょうね。
自分のことを考えると、確かに「事前に相手が持っている情報と自分が持っている情報の間を糊付けしていく作業を割と自然にしてきた」ような気もするけど、一方でそれを怠る場面も結構多いような気もします。
確かに「相手がまったく分かってくれない」とか「勝手な解釈をする」と感じることもあるけど、「わかってくれないなら、もういいや」と匙を投げてしまうことも結構あるような。
幸いにも、ぶっちーのような良き理解者に恵まれて「細かく説明しなくてもわかってもらえる」ことも結構あると思うし。
まあ、たとえぶっちー相手でも「相手がまったく分かってくれない」とか「勝手な解釈をする」と感じることはあるし、逆もまた然りのはずだけど(俺がぶっちーのことをまったくわからなかったり、勝手な解釈をしてしまうこともある、ということです)。

思うに、俺が「相手がまったく分かってくれない」「勝手な解釈をする」ことによって本当に困った経験をしたのは、ここ1年くらいの話です。
仕事で「この人とは全然バイブスが合わないし意思疎通がうまくできないけど、ここは何が何でも伝えなければならないし、相手の考えを理解しなければならない」という緊迫した場面が増えて、これは結構ストレスでした。
この時、自分が「事前に相手が持っている情報と自分が持っている情報の間を糊付けしていく作業」を上手くできるのは諸々の好条件が揃った状況下に限定されるのであって、そうでない時は大苦戦する、という現実を突き付けられたような気がします。
これを英語ではなく、母国語である日本語でやらなければならない、というのが自分的には何よりもタフでした。
自分が最も自由に使える、最も深く思考できるはずの言語でこんなにも伝わらない、理解できないとなると、思考のOSそのものをアップデートしなければならない、ということにある段階で思い至った。
ちょっとボキャブラリーを増やしたり、表現を変えてみたり、情報量を増やしたりする程度では問題が解決しないので、思考の枠組みそのものを変えなければならないというか。
この頃から、言葉を表面的に受け取るののではなく「この人は何でこんなことを言っているんだろう」とか「この人は本当は何が言いたいんだろう」というようなことを考える癖が(ほんの少しだけ)ついた気がします。

俺の見立てでは、ぶっちーも俺も表層的な情報を処理するスピードはまあまあ速いけど、それらの情報が乗っかっているシステムのメカニズムを理解したり、その上で他者との相互理解を深めていくのは苦手なタイプではないか?と思っています。
少なくとも俺自身については、そういう性質があると自己分析しています。
一見「わかってる感じ」や「わかりあえた感じ」を出すことは割とできるけど(だから面接とかは意外と得意です)、実は深いところではよくわかっていない、ということが多分結構多い。
やがて「相手がまったく分かってくれない」「勝手な解釈をする」とお互いが感じる場面が訪れたときにも粘り強く対話を続け、時間をかけて「相手がまったく分かってくれないけど、これだけは分かってもらえたから良しとしよう」という状態に持っていくような作業こそ真のコミュニケーション能力だと思うけど、俺は前職でこの作業にかなり苦労しました。

我々は(度々一括りにして申し訳ないですが)言うなれば、それなりにハイパフォーマンスなCPUと使い勝手の良いアプリケーションは有しているものの、他のOSとの互換性が極めて低い独自OSを搭載したコンピュータみたいなものなのではないでしょうか?
(上手いこと言った気でいますが、全然違うかもしれません)

他のOSとの互換が上手くいかない時って、何が原因かを考え、上手くいくようにプログラムを少しだけ書き換えたり、あるいは相手に書き換えてもらったりする作業が必要だと思うけど、それってかなり面倒臭いじゃない?
だから「あ、互換できないっすね。じゃ、さいなら」と俺はなってしまいがちなんだけど、これこそが仕事が長続きしなかったり、他人と長期的な信頼関係を築くことに苦労してきた理由なんじゃないか、と最近思っています。
「私のOSは問題ないので、あなたが書き換えてください」というのは当然良くないけど、逆に自分だけが「すみません、私が書き換えます!」と言って対話を強制終了してしまうのも良くないんだと思う。
どちらか一方に問題がある、という考え方ではなく「おやおや、どうも私たち上手くいきませんね。ここは一つ、お茶でも飲みながら一緒に解決策を考えてみませんか?」というスタンスこそが大事なのではないか?と思う。
もし前職で学んだことがあるとしたら、一つはそういうスタンスを持つことの重要性ではないかと思っています。
すぐに白黒つけるのではなく、グレーな状態を良しとする胆力というか。

ここまで書いて思ったけど、もしかしたら、冒頭に書いた「撮影者と被写体の境界が曖昧になるような写真は素敵だと思う」という話と少し似ているのかもしれないな。

コミュニケーションというのは、どちらか一方に問題があるということはなくて、相互にリアクションし合うプロセスを何度も繰り返した結果として、上手くいったりいかなかったりするんじゃないかと思います。
少なくともそういう認識でいた方が、無用な人間関係のトラブルで心身を消耗したり、社会的に行き詰まったりすることは減るんじゃないかと思う。
まあ、言うは易し、行うは難しですが。

ぶっちーが50年後とかにもうボケて俺の名前もわからなくなってもそれだけは忘れないで欲しいくらい大切なことを言った気がするから、満足して今日はよく眠れそう(仕事しろ)

2022.1.5
はるお