ハルくん、片道通行気味な執筆、ありがとう。

まだこのブログがいつ公開されるかわかりませんが、どうしても上記のタイトルをつけたくて慌てて返事を書いています。
わたしはまだ仕事納めできていなくて、なんなら今日も余計な仕事で1日が終わり、明日から冬休み予定が下方修正されようとしています。
こんばんは、深夜のテンションのますぶちです。(サワルナ・キケン)

書こう書こうと思いつつ2年の月日が流れていました(大袈裟)
前回のブログからの変化は、苗字が変わりました。おかえり、ますぶちさん。

今日は亡くなった祖父のこの世のお誕生日です。
彼が10代の頃に、彼の兄が同じ日に肺炎で亡くなっていて、彼のお母さん(私の曽祖母)は毎年泣き暮れる日だったそうです。
戦争を生き抜いて還ってきたけれど、体はだいぶ弱っていて、帰国して2年後に肺炎で亡くなったそうです。
ちなみに祖父も海軍兵学校を経て兵役に出ますが、お腹を壊して帰ってきて終戦を迎えたと聞いています。
ルーツの話で言うと、わたしのフィジカルの設定(身体弱め)はこの辺からきているのではないかと思っています。
時代が時代のおかげで、まだ生きながらえています。
この春には子宮筋腫の手術もしました。コロナ禍で誰もお見舞いに来れない中で、入院先の病院にたまたま勤務していた母の友達がちょくちょく差入れをしてくれて、
宝箱多めの設定のダンジョンをクリアしていくようなチート感がありました。感謝。


さてと。


制作活動の「文系寄りか理系寄り」の部分をもう少し掘り下げたいんだけど、
芸術活動の評論にはすべて理系要素が入っていると考えられない?
  • 色相
  • 構図
  • 空間構成
とか、こういう教科書に載っているようなことは、
芸術を科学する(あんまりかっこいい言い方じゃないんだけど)ようなプロセスを経てまとめられている分析結果な気がする。
それが様式とかテクニックとして本にまとめられていて、前提条件を共有したうえで作品を作り出したり、もっと洗練された作品作れるようにガジェットが開発されたりりしてるんだと思う。


あと、ここらへんも気になる。
カメラを構える自分と、被写体となる対象とどっちが大切かと言えば、当然「自分より対象」のはずだから、そう考えるカメラマンの気配は、自然と「消える」の方向に行くんじゃなかろうか。
Q:被写体が自分にリアクションした場合、それはもう被写体ではなくなるのか?
個人的には<カメラ>の存在感が消えている作品が好きかもと思ったことはあるけど、<カメラマン>の気配が残ってる写真の中にも、心にぶっ刺さるものがある。
Q:写真の構成要素はカメラマンと被写体だけなのか。背景は?デコレーションは?被写体を構成する要素は本当に必要なのか。影は?シミやシワは?
伝えたいものだけが適切に写っている写真が最も本質的なのかもしれないけど、 そこに混じり込むノイズが作品をより魅力的にすることもあるんじゃないかな?

ダークサイドますぶちは、橋本治に聞きたい。「カメラを構える自分と、被写体となる対象とどっちが大切かと言えば、当然「自分より対象」のはずだから、そう考えるカメラマンの気配は、自然と「消える」の方向に行くんじゃなかろうか。」が本当に言いたかったことですか?「素敵じゃないコンテンツを無責任にアップしないで?つまらないし、うるさくて耐えがたいんです」と噛み砕いてもいいですか?噛み砕きすぎてもはや私の心の声という苦情は受け付けています。

最近はデジタルマーケターなるものをしていて、とにかくウェブ上でどうやって成果出すかを考えるんだけど、それぞれのプラットフォームで愛されるコンテンツの作り方はもうある程度みんな知ってる中で「どこまでできんの?」ていう根性論の世界だから疲れてきた。なんだかんだ入社直後に「これ、どれだけ根性出せるかっていう競争じゃない?」て思ってから1年が経ちました。

自分が好きなサービスが人に愛される手伝いしたいって思うけど、方法論さえ知ってて実施する根性があれば誰でもどんなものでも拡散はできてしまうところが怖いなと思ってる。ブランドを広く知らせる力のあるチームがあることと、商品やサービスの魅力は別物であるっていうことを見失わないでほしいけど、これ、苦手な人多い気がする。
ところで、被写体となるものを我が物とするために写真を撮影するっていう感覚は、とーーてもよくわかる。
例)酔っ払って記憶がない翌日、カメラロールにまったく覚えていない写真や動画が残っている。自分の脳からこぼれ落ちるであろう記憶をAUTOで補完する作業。そのときここにいたイマココ性の極みとも思う。ちなみに、水平も垂直もへったくれもありません。

写真に限らず、あらゆる表現はついつい「自己主張しがち」だと思うので、それを抑制する冷静さと客観的視点が、良い表現には重要なんだと最近思います。
このブログでも、ついつい自分の話、私的な話をしてしまいがちだけど、そうした話はあくまでも伝えたいことを伝えるために必要な文脈を提供するという役割に留めるべきであって、パーソナルな物語に一人で酔いしれないように気をつけなければならない。
でも、それを自分一人で見極めるのって結構難しい気がしていて、その点、このブログにはぶっちーという専属編集者(と俺は勝手に思っている)がいるので、多少は客観的視点を持ちやすくなっているのかな、と今思いました。

わたしは自分語りコンテンツは、必ずしも悪ではないと思う。
もちろん「果てしなく気持ち悪いな」とか「わたしの脳の認知領域を無駄に使ってしまったじゃないの」と憤怒することもあるけれど(誰もそこまで言ってないよ)。
「今朝はクロワッサンを食べました」ていうツイートは見た瞬間にアンフォローするけど、ゲーム実況のYouTube何時間も見るのはできる。我ながら矛盾しまくり笑
さて、後付けで線引き理由を考えてみるか。
まずゲーム実況ならなんでもいいわけじゃない。わたしにわかる方法で、ゲームの前提とか彼の戦況を常にアップデートできる人が好き。ただ無言でゲームしてる動画とか絶対見れない。暴言吐きまくる実況者とかも全然好きじゃない。視聴者のこと考えて、適切に補足説明してくれる実況者が好き。

ここ(交換ブログ)は私たちの仮想アフタヌーンティサロンだからそもそもこのページを訪れてくれる稀有な猛者たちは、ますぶちという第三者向けにエゴがこぼれ出てるハルくんが自分語りする姿をおっかなびっくり観察しに来てくれていると思う。だけど、私もハルくんも、事前に相手が持っている情報と自分が持っている情報の間を糊付けしていく作業を割と自然にしてきたタイプの人間だと思う(多分それは我々の人生で、その作業を怠ると相手がまったく分かってくれないor勝手な解釈をする場面があまりにも多かったから)

ハルくんが50年後とかにもうボケてわたしの名前もわからなくなってもそれだけは忘れないで欲しいくらい大切なことを言った気がするから、満足して今日はよく眠れそう(仕事しろ)

2021.12.28.
ぶち