ぶっちー、

こんにちは、いきなりの連投(約3ヶ月ぶりだけど)失礼します。
ふと、このブログに文章を書きたくなって、風呂上がりに書き始めました。
何を書くか、どんな話を書くか、全く決めてません。

「書き手は『書いた後』に、自分が何を書きたかったかを知る」

というようなことを、内田樹(またかよ)がどこかで書いていて、確かに、と思ったね。
最初から「伝えたいこと」が明確にあって、それを伝えるために書く、というような書き方を、少なくともこのブログでは俺はしていない。
仕事のメールとかだったら、要件はこれです、以上、ってハッキリ書くけど。
このブログでは「いや、何について語りたいとか特にないんだけどさ、とりあえず何か語りたくってね」というゆるゆるした動機でいつも文章を書いている気がする。

とりあえず「書きたい」という衝動があって、手を動かして(キーボードを叩いて)書いているうちに「そうか、俺はこういうことを書きたかったんだ」と後から気付く。
あらかじめ用意した楽譜通りに演奏するのではなく、ジャズのアドリブをプレイするような感じ。

マーシャル・マクルーハンっていう60年代に一世を風靡したメディア学者(という肩書きで良いのかわからないけど)、知ってる?
彼は「メディアはメッセージである」という有名な言葉を残していて、コンテンツ(内容)よりも容れ物(たとえばテレビ、新聞、ラジオ、インターネットなど)こそがメッセージである、というようなことを言ってるんだよね。

たとえば、同じ「ありがとう」と言うのでも、LINEで送るのと手書きの手紙を送るのでは、受け手の印象が違う。
これは「手紙」というメディア(媒体)が持つメッセージ性を利用して、感謝の気持ちを伝えているわけだ。
同様に、同じ内容の話でもツイッターに書くのとブログに書くのとメールに書くのでは、微妙に意味合いが変わってくる。
料理そのものも大事だけど、それが乗っているお皿も結構大事なんじゃないの?というわけだ。

そう考えると、このブログというのはなかなか他に類を見ない、レアなお皿なんじゃないだろうか?

皿としての実用性とかデザイン性とかは置いておいて、「珍しい、変わった」お皿であることには間違いない。
で、「珍しい、変わった」お皿は日常的な使い勝手はあまり良くないんだけど、ふと使いたくなるときがある。
「でも、このヘンテコなお皿には一体、どんな料理をどんな盛り付けで乗せればいいんだろう」と考える。
「まあ、とりあえず冷蔵庫にあるもの乗せてみっか」という感じで、最近あった出来事や読んだ本の話なんかを書き始める。
で、書いているうちに「あれ、サイドディッシュにこれいいかも」てな感じで、話が脱線していく。
やがて「あれ、メインディッシュは何だったけ?」てな感じで、自分が何を書いていたのかよくわからなくなる。

ええと、なんの話だったっけ。

まあいいや、とにかくだ、シャンプーしてたらふと急にこのブログに文章を書きたくなって、服もちゃんと着ないまま(パンツは履いてます、安心してください)パソコンを開いて今、この文章を書いているのでした。

そうだ、もうひとつ書きたかったのが、マクルーハンの話に戻るんだけど、彼は「メディアはマッサージである」というヘンテコなタイトルの本を書いてるのね。
さっき書いた通り「メディアはメッセージ」というのが彼の代名詞的なフレーズで、この本のタイトルも元々「メディアはメッセージである(The medium is the message)」だったんだけど、印刷された本を見たら業者のミスで"message"の"e"が"a"になってて、その結果「メディアはマッサージである(The medium is the massage)」になっちゃったんだって。
それを見たマクルーハンは怒り心頭、ではなく「面白い」と言ってニヤリ、そのまま「マッサージ」をタイトルにしてしまった。
その本が、出版から50年以上経った今も読み継がれる彼の代表作となった。

このお茶目な遊び心、すごく好き。

なんてことを思うのは、日々の仕事で遊び心のカケラもない退屈なビジネス文書を毎日読んでいるからでしょうか。
かく言う俺も遊び心のカケラもない退屈なビジネス文書を毎日書いているわけで、「もっと面白くできる」と「まあこんなもんでいっか(面倒臭いし、たかが仕事だし)」の狭間で日々、揺れています。

ぶっちーは最近、いかがですか?

2020.07.07
ハル