「あなた、夜眠れる?」

彼女に関する記憶の中で、最も古い会話である。
赤…マットで華奢な金属フレーム…メガネ。
その奥のまっすぐとこちらを捉えた黒よりも黒い、エネルギーに満ち溢れた目が、こちらを見ていた。

自分より15cmは軽く背が低いはずの彼女に、
わたしは最初から圧倒された。

「眠れるよ。2時間おきに目がさめるけど。」

思いがけず自分の口からこぼれたタメぐちに、吹き出しそうになる。
びびった時に、体を大きく見せようとするフクロウを思い出していた。

「いいわね。若さよね。」
何に納得したのかわからないが、彼女はウンウンと頷いている。
こちらの逡巡などお構いなしだ。

他愛ない会話をする。
おしゃべりしながら、彼女は器用に、紙コップからペットボトルへ水を移す。

それぞれの歩行器のサークルに囲まれて、部屋まで戻る。
歩行器も、二人の身長の違いを物語っている。
やはり15cmは違う。

入院4日目のことだった。


入院6日目。
朝の日課になったラウンジでの一服(ほうじ茶)をしていると、
「今日は雨ね〜」
と、彼女の声がした。
体ごと彼女の方を向き、
「おはようございます」と笑う。
彼女も笑って、「おはようございます」と言う。

入院してから初めての雨だった。






顔をあわせるたびに、挨拶をする。
ラウンジで会えば、家族や住んでいる所の話もする。

彼女が入院したのはわたしより1日遅いこと、
隣の部屋に入院していること、
趣味の社交ダンスのハイヒールで腰を痛めて手術したこと、
世田谷に住んでいること、
娘の結婚式はサンフランシスコで挙げたこと、
娘さんは今はフランスで社交ダンスを教えていること。
あと1週間は入院すること。
いたずらっぽく笑う顔は、少女そのものであること。
エルメスが好きなこと。
昼間は黒の服ばかり着るのに、パジャマはピンクが好きなこと。
なんだかわからないけれど、いい匂いがすること。
いい加減な冗談の合間に、急に真面目な顔で「自分の人生は、自分で幸せになることしかできないわよ」とか言うこと。
その流れで「幸せになりなさいよ」までを真顔で言って、それから笑うこと。

わたしのことを「不良娘」と呼ぶこと。

わたしの知ってる彼女のすべて。

そして、彼女について、ずっと忘れたくないことのすべて。

2017.10.12.
ぶち